41年前のマドンナと再会!
ロミオも健在?!


 我々と14才しか違っていなかった。でも当時は怖い存在だった。とは誰かの発言。「でもこの年の差は絶対に縮まることはないんだよな」とは先生ご自身の言葉。でも41年前の姿に一番近かったのもやはり小林せんせいでした。
社長兼受付係こと佐藤君、万年幹事は本当にご苦労様。白泉社の常務取締役営業部長の貫禄で大活躍。
後ろに控えるのは杉並区宮前中学校の長老(?)であり若さのホープでもある榊原(長)先生。
 司会の立川君の配慮で、まずは亡くなった松井君原田君への黙祷から始まった。やがて宴たけなわ。41年のギャップは10分でどこかへ消えてなくなり、やや色が変わり薄くなった髪の毛と少し皺の増えた顔面の背後から、昔懐かしい40年前の面影がすっと重なる不思議な瞬間。定年を今年か来年に控えた第2の人生を見定めつつ、我が身の健康を気遣う。
手術で胃を全部切除した佐藤義博君の元気。満腹感がないので食物の取り方が難しいが口で咀嚼を徹底することが秘訣という。一方交通事故で片腕が全く使えない田島君は肝臓に直径10cmもの腫瘍ができて入院を繰り返しながらも、障害者の国体で金メダルと銅メダルを勝ち取ってきたのを知って皆が喝采を送った。清水建設の労組委員長を続け、労働条件の改善に情熱を傾けた中村陽一君は樺太からの引き上げで混乱に巻き込まれ、1年遅れて本土の学校に入学したため、皆の1年先輩になるとのこと。本土に引き上げて始めて白米を食べたら、胃がびっくりしてとたんにひどい下痢に悩まされた話などは我々の世代でないとなかなか共感できないことかもしれない。
山脇君は年輩者には合わないと思われがちなパソコンのオーソリティだが、若者の根気のなさ、甘えの構造を嘆く。小杉君も40年前の物理部の屋台骨的存在で、テレビのない時代にテレビを自分で制作し、無線の方でもリーダーだった。今も彼の情熱は変わらない。加藤君も目下NIFTYを通じてインターネットへ参加されている。中根君は体育教育特に野球の普及に関しては全国規模の組織の中心人物。実直さと情熱が結晶したような教育者の風格をみると彼が教えている中学で世間を騒がすような問題に無縁であることが分かるようだ。氏家君は日本航空電子の屋台骨だった人。今回の2次会の場所についても彼のおかげがあった。鷲尾(組村)さんと稲葉(村松)さんの情報を今回ご紹介出来なかったのは心残りでした。
 この右はアメリカに長いFeece章子さんといまだに文通を続けている鷲尾(組村)和子さんと東海自然歩道を歩き続ける松田(折原)幸枝さん。Feeceさんは今回、長い近況報告をお送りいただき、我々も驚きと感動をもって読ませていただいた。(2頁参照) 錦織君は電源開発株式会社でその若い情熱を燃やした人。「今日は40年前のマドンナに会いに行くんでしょう」と娘さんに言われたとか。
そのマドンナとは誰かは秘密!
古川(宮崎)京子さんは我がクラス結婚第1号の人。しかし36才のお子さんがあるようにはとても見えない若さがあふれる。もう長年編み物の先生でならし、お弟子さんがたくさんおられる。
ご主人もカヌーを作られる名手とか。インターネットでそのことを知った人がお宅に制作技術を教えてもらいにみえるそうである。どうもこのような進取の精神のカップルが若さの秘訣のようだ。

一方こちら左の若奥様はかつては人間国宝能楽師であられた方のお嬢様、近藤(櫻間)満里弥さん。はるばる静岡県からこの会に馳せ参じていただいた。彼女もお父様の血を引いておられるのか芸術家。歌にかけては弟子をたくさんもっておられる。でもご主人の建築事務所でも貴重な存在で、ワープロ、パソコン何でもこなすセクレタリーにも変身する。
一方片隅ではパラリンピックのチャンピオン田島氏と教育界の大御所、榊原(長)紀子先生の教育談義が熱を帯びてくる。そしていつの間にか3時間が経過し三三九度ならぬ三三七拍子の歯切れの良い手拍子の音とともに別れを惜しんだのでした。

櫻の中のそぞろ歩き

──パーティの前のひととき


 4月4日昭和記念公園の櫻は我々の再会を祝福してくれるように満開の花で我々を包んでくれた。クラス会の始まる2時間半前に立川駅に集合した面々はごらんの左から加藤、古川(宮崎)、佐藤義博、峯尾(迎)、それに下の米林、立川の諸氏プラス即席カメラマン相沢の7名。佐藤将(社長)の呼びかけなのに当の社長は急用でちょっと遅れるとかで、とりあえず出発。立川で生まれ、その名も立川氏が彼の縄張りの立川にある昭和記念公園に来るのは生まれて始めてというので、道案内の出来る人はゼロ。とにかく花粉症の名残り(?)でマスクで武装した加藤氏をかばいつつ、ヤジ・キタ道中が始まる。
Feeceさんとの連絡に関してインターネットとE-mailがひとしきり話題になる。結構パソコンに無縁に過ごしてきた我々のジェネレーションだがこのところの風潮はそれをなかなか許してくれないことへのいらだちと、やってみようかという好奇心が相半ばする。
 櫻の園はやはりすごい櫻と人の波。緑の芝生と真っ青な空の間に櫻のピンクが春らしい空気を作る。芸術家峯尾(迎)さんは櫻よりもポピーに興味があり、一生懸命。彼女はご主人の定年の後、飯能の自然の中で民宿もできる大きな家を建てて、芸術家の生活を続け、しばしば個展を開いておられる。10人分の布団はすでに用意されているとかで、2年後のクラス会は1泊どまりで彼女の家にお世話になってはどうだろうという声が強い。
そうこうしているうちに佐藤(社長)が公園の正門に着いた旨、峯尾さんの携帯電話にメッセージが入る。何と彼は自転車を借りてその3分後には公園の反対側の日本庭園前に姿を現す。皆唖然。とりあえず立川まで30分かけて歩くことになった。そのとき峯尾さんが腹を空かせた弟子を前にしたキリストになった。ひそかに用意していてくれたパンをちぎって皆で食べようと提案してくれたのだ。ぶどう酒の代わりに午後の紅茶ではあったが、このパンのおいしかったこと。Hunger is the best sauce.というより彼女の思いやりと新鮮な発想がthe best sauceになったのだろう。
左の写真の両佐藤氏の満足そうな笑顔をとくとご覧あれ。胃袋を手術で失われた佐藤(義博)氏も、それで元気をつけて長いそぞろ歩きを終えることが出来たのかもしれない。
 病気の話は御法度よと初めに誰かが言っていたが、結局還暦にもなると話題はそっちへ自然に向いていく。親の介護でこの会に参加できなかった方も何人かいるし、ほとんど全員が介護の経験を持っていると言ってもいいくらいだと思う。
最後に今回の歴史的(?)再会を果たした同期の桜20人と小林先生、全員集合の写真をご覧に入れて締めくくりとしよう。ありがとうございました。  (文責 裏方・相沢)



後列左から、山脇、中根、中村(陽)、峯尾、錦織、佐藤(将)、相沢
中段左から、立川、松田、鷲尾、加藤、氏家、小杉、米林、
下段左から、稲葉、榊原、小林先生、田島、佐藤(義)、近藤、古川
         (敬称略)


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 2頁目にはクラス会のお知らせに記された「近況」欄をそのまま入れてあります。









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