親父・お袋の新婚時代

 甲府の祖父・相澤慶重が親父お袋の新婚家庭に一ヶ月も滞在したことがある。昭和13年9月のことである。その時祖父は漢詩を沢山残し、それに漢文の教師であった叔父(相澤一)が解釈を書き、父がその前後の日記からの抜粋を添えたものが出てきた。漢詩は難解だが、日記は様子がよく分かるので次に転載してみる。

昭和10年2月11日 二カ年間の満州出張から帰る。喜び安心したのか、母脳溢血で倒れる。

昭和10年3月26日 大阪朝日新聞社に入社。母は杖をついて歩けるようになった。朝日町の古屋歯科にかかって入れ歯を注文してもう出来上がっている頃と思う。

昭和10年12月15日 母、脳溢血の再発で倒れ、遂に立たなかった由。芦屋の夙川。パンシオンホテルで訃報に接し、その日の夜行で立ち、夜明けの身延線を甲府に向かった。当時の状況が頭に浮かぶ。母が生前に作っておいてくれた干し柿が軒にぶら下がっていたが、葬式に集まった人々の供養になってしまった。

昭和12年11月16日 宝塚ホテルで結婚式。

昭和13年9月吉日 父、新家庭に遊びに来る。新家庭は阪急電鉄夙川駅から支線で一つ目の樋の池駅で下車、徒歩で5分くらいの樋の池のほとりの借家で、玄関が3畳、居間が6畳、食事部屋が4畳半、2階が9畳、4畳半、3畳の他、2畳分の納戸。この2階の9畳が父の部屋だった。窓から樋の池が眺められ、落ち着いた良い部屋だったと思う。この池は終戦後行ってみたら埋め立てられて、そっくり中学校になっていた。この家の家賃は27円。月給100円ちょっとの時だったので月給の4分の1程度だったことになる。ちょうどその頃は長男の健夫が腹にあった(翌年3月出産)ので、多少は大変だったようだったが、今となっては良い思い出となった。

大阪城-大阪朝日新聞社に勤めていたので、まず大阪城に案内して戦国時代の末期の亜有様を偲んだ。

高野山-大岡家の墓地もある高野山にはそれまで何回か登ったことがあった。信玄と謙信とが並んで近くに眠る墓標もあり「死ねば敵も味方もないね」と父が言うた。庭の美しい清浄心院に申し込んで泊まり、朝の五時からの勤行に列して心の清まる思いであった。弘法大師の奉られている本堂には貧者の一灯が絶えることなく灯っていて、その前の行逢橋を渡って行くわけだが仏頭を洗うところがあり、人並みに佛の頭に水を注いで過ぎていった。寺の建て込んだ高野町の中心から歩いて電車の高野山駅までの間にコスモスの花が咲き乱れていたのも思い出される。

比叡山-それから比叡山に登り戦国の世を偲び、琵琶湖側に下山して湖上を舟で八景を見る。当時六十三歳くらいだった父は旅行は多少身にこたえた様子だったので「樋の池」の家に帰って休養してはまた出かけるというふうだった。

客中秋雨-それでゆっくりしていたときのことかと思う。天気の良い日には付近の小山の上の氏神様に朝食前に登ったこともあった。あの辺は以前は瀬戸内海が広がっていてとても良い眺めであった。阪神間は後ろは山(六甲山)で東京付近にはない良い地形であった。

人形浄瑠璃-疲れもとれたので今日は大阪の人形浄瑠璃の一番古い劇場へ案内した。何かの義理人情ものだった。その時の感激を父は漢詩にした。

上帰程-一ヶ月過ぎていよいよ帰ることになる。浦島太郎の竜宮に遊んだ時の心境だったと思う。

宝塚遊記-帰る前に宝塚の少女歌劇と武庫の清流、それに宝塚公園を散歩した。

この新家庭への旅行から十二年を経て父は亡くなった。げにはかなきは人生と言うべきか。                      (小二郎記・健夫編集)