親父(オヤジ)の思い出

(次をクリックしてください)下関田無元就私だけが.. .、 マツダクーペ電気
     とっとき屋単身赴任天風会カーキチ温泉善良な一市民

道 彦

◇下関市小月町













◇東京・田無




◇毛利元就







◇私だけが知っている





Mazuda-Coupte360







私にとって親父の思い出が具体的な形で蘇ってくるのは、やはり小学校に入ってから後のことになる。太平洋戦争の状況が悪化して疎開した長崎県島原市から山口県下関市小月(おづき)町に引っ越してきた昭和22年には、まだ幼稚園前の5 才の幼児であったから記憶はきわめて断片的で、スライドの1 枚1枚を順不同に見ているような前後のつながりの無い記憶しか残っていない。しかも親父は私が小学校に入学してまもなく朝日新聞の西部本社( 小倉)から大阪本社に転勤になり、今で言う単身赴任になった。
夏休みとか、正月には帰ってきたが短い休暇が終わるとすぐまた赴任先に帰ってしまうので、余計印象が薄いのかもしれない。そのせいか休暇で家に帰ってくると親父は子供4 人を連れてよくいろいろな所に出かけた。山口県西部の観光名所と言えば、秋芳洞、秋吉台、赤間神宮、長門峡、萩などが有名だが、戦後のどさくさの中で観光などとは余り縁の無い時代に親父のおかげでそれらの全部を小学校を卒業する前にマスターしてしまった。親父自身も出かける事を億劫がる方ではなかった。だからその頃の私にとって親父はたまに玄関をあけて「たいまー("ただいま"の意)」と陽気に帰ってきて、夏はカナヅチでも恐くない(それゆえに男の子三人そろって泳ぎはうまくない!)遠浅で有名な綾羅木の海水浴場に連れていってくれたりするいい「 お父ちゃん」であったし、それ以上の強烈な印象がない。
昭和30年1 月から今の田無で、初めて本格的に親父と一緒の生活が始まった。小月にいる時は兄弟喧嘩をした時に大声で叱るのは当然母一人の仕事だったが、田無に移ってからは母も責任が半分に減ったから叱る事も少なくなったし、親父は親父で殆ど子供を叱る事がなかった。親父に大声で怒鳴られた記憶はほとんどないし、ぶたれた記憶も一度もない。別にそれだけいい子だったという事ではなく、親父は親父で叱る事は上手でもなければ好きでもなかったからだと思う。これは今の私も親譲りだが..... 教育パパと言ったイメージは全くなかったし、あまりお説教めいた事も言わなかったが田無に来て間もないある日の夕方、庭で掃除の後に三人の息子に細い三本の竹の棒を渡して一人で三本一緒に折ってみろと言う。兄貴がトライしてだめでヒコちゃんもだめで、当然私もだめだった。次にその三本を一本ずつ三人に渡して折らせ、これこの通り一本では折れる棒も三本が一つに集まると折れなくなる。三人が力を合わせて事にあたれば一人でできない事もできるのだよと、毛利元就が自分の三人の息子に三本の矢を折らせた故事にあやかって"教訓" を示した。
親父は新しいものが好きだった。戦後の混乱期が一段落して日本経済の再建が進みはじめると色々な家庭電化製品が発売された。親父は世の中の多くの人が購入する時期よりもはるかに早くそれらを買った。テレビは昭和32年に我が家に入ってきたが、その時期、田無中学2年の60人余りのクラスで自宅にテレビのある家は他に一軒しかなかった。「日真名氏飛び出す」とか「私だけが知っている」などの番組をやっていた頃の事だが、大相撲ともなると夕方近所の子供たちが(時には親たちも)我が家のテレビを観戦にやってきたものだ。
洗濯機も早かった。今のような噴流式ではなく水槽の中で縦に取り付けた四角い板がゴトゴトと往復回転運動をする攪拌式と言うやつで、絞るのも二つのローラの間に洗濯物を挟んで手でぐるぐる取っ手を回転させる原始的な物だったが、初めて文明に触れたような気がしたものだ。テープレコーダは家にしかなかったので、わざわざ友達が我が家にハーモニカの録音に新宿から電車賃をかけてやって来た。
極めつけはマイカーかも知れない。今は斜陽の東洋工業マツダの発売した、日本のモータリゼーションの先駆となった大衆向け軽乗用車クーペ(何と360cc)が初めて我が家にやって来たのは多分昭和36年頃のことだったと思う。兄貴の先輩の古沢さんをして言わせると「蹴っ飛ばすとひっくり返りそうな小さな車」であったが、今でもその残骸の残る田無の二本の門柱の間を通るにはギリギリで高度な運転技術が必要であったのを覚えている。我が家は決して裕福というレベルではなかったし、親父の給料袋は見たこともなかったがその金持ちでもない家の割にはそういう新しい物によく投資をしたものだと思う。
買い物と言えば、親父は会社の帰りによく色々な物を買って来た。食べ物の場合にはあまり問題はなかったように思うが、身の回りの品物とか衣料品とかは好みの問題もあるしセンスの問題もある。たいていの場合買って来た物は母のめがねに叶わず、翌日母が品物を持って返しに行くと言うパターンが、結構何回もあった。親父はそれにもめげず何度も同じような物を買って来た。この衣料品に対するセンスの無さも親譲りかも知れぬ...... (ごめんなさい。)
技術屋だけあって親父は手先は器用な方だった。家の中の電気製品はもとよりたいていの道具の故障は自分で直した。もともと電気屋だったから電気には強く、昭和24年頃の話だったと思うが、終戦直後の電力が逼迫していた時代に電気を食うからと言う理由で使ってはいけない事になっていた電気コンロ(らせん状になったニクロム線を蚊取り線香のように巻いて加熱させるもの)をどこからか調達して来て、母は便利にそれを活用していた。ところがあまりにも電力を食うのでコンロを使っているのではないかと悟られるといけないから、適当に調整していた。ところがある月にこの調整が行き過ぎて、検針日の前にチェックしてみたら一月経つのにほとんど電気をつかって居ない事になってしまった。大慌てで配線を元に戻して電気コンロを大いに使ったがその月の使用量は極端に少なく、青くなった母の進言もあって、この落語みたいな話は終わりになった。
ものの無い戦中、戦後を生きぬいて来た世代の人々は誰もそうだが、親父も人並み以上に物を捨てなかった。木のみかん箱を解体した時に出る錆びた曲がり釘は一本一本トンカチでまっすぐに直して保管した。板切れは小さくてほとんど使い道の無いかまぼこ板大の物まで物置の隅にきちんと積み重ねてあった。そういう親父を見て育ったものだからこの物あまりの世の中で、いまだに私も物を捨てるのに相当な抵抗を感じる。容器としては色々に使い道のありそうな蓋付きの大きなジャムのきれいなガラスの空き瓶などを捨てる時には勿体無いと思うし、すでに使う可能性も無いような古自転車を粗大ゴミに出さないでとってあるから素子のヒンシュクを買っている。母もあまりの親父の「とっとき屋」ぶりに業を煮やして「これからは、『消費は美徳』の時代なんですからね!」と言った事もあった。車をマツダクーペからトヨタパブリカに取り替えた時、先述の門柱の間隔が狭く、門柱を新しく建て直そうか、という話になった時に反対したのも親父だった。そのおかげで門柱は一番出っ張っている車のドア取っ手が当る高さの所だけ、内側を削って広くなっている。
しかし世の中も変わり、今またリサイクル時代と言い出してドイツあたりの欧州先進国では、飲料用の缶を一切使用禁止にしてすべてガラス瓶に切り替え、各家庭できれいに洗ってからリサイクルに出す事を法律で義務づける国さえ出てきた。誰でもそうだが、人間精神的には弱い所をたくさん持っている。自分一人で決断できない時には神頼みになることだってある。初めて親父が大阪本社に転勤になった時に単身赴任をするか、家族一同を引き連れて大阪に住むか随分悩んだと聞いた。結局どちらにすれば良いか決断が付かなかったので、親父は二枚の札にそれぞれの選択を書き込んでどちらがどちらか判らないようにして神棚にあげ、おみくじを引くようにそのうちの一つを選んだ。神棚の結論は一家全員大阪行きであったそうだが、面白いのはそれほどまでに委ねた結論に親父は従わず単身赴任の道を選んだことである。多分本音は引越しをためらっていたのだが、決心を確実にするために助けを求めた神棚に裏切られたと言う事だったのではないかと思っている。
親父を語るに天風会を省く訳にはいかない。天風(てんぷう)会はヒコちゃんの方がよく知っている筈だが、昭和36年頃から参加していたのではないかと思う。その頃私は理屈っぽい学生だったし、なんとなく新興宗教のにおいが強くて好きになれず、親父から何度勧められても「『プーテン会』なんかには行かないよ。」とか言って結局一度も中村天風氏のお話を聞きに行く事はなかった。私は今、中村天風氏の評価を云々する立場にもないしする事もできないが、親父にとって天風会が一つの自分の生き方を決める大きな拠り所であった事は疑う余地がないと思っている。 親父は生っ粋の技術屋で、若い頃は知らないが子供が成長してからはいわゆる評論や文学作品の類はほとんど読まなかった。初めての天風会との出会いがどういうきっかけであったのか私は全く知らないが、インドの山奥で長年修行したというこの先生に親父はひどく惚れ込んだ。紙のこよりで割り箸を折ったり、腕に針を通して裏側まで貫通させても痛くもないし血も出ないなどというデモンストレーションがあり、またクンバハカと言ってお尻の穴をギュッと閉めておくと危険や苦痛に対して効果があるなどと"効用"を色々と説き聞かせてくれた。深呼吸を組み合わせた朝の体操があり、冬の朝でもパンツ一枚でこれを実践した。体操の終わりには合掌して「今日一日怒らず恐れず悲しまず、正直親切愉快に、...... 云々」という生活訓を暗唱して終わる。親父がいつまでこれを続けていたのか知らないが、私が田無を出る時にも毎朝かかさず実行していたし、結果としてこの" 健康法"が、親父の長生きのためになったかもしれないと思っている。
親父の趣味は何だったろう。碁も将棋も人並みにやったし、私の碁も親父から教わった物であるが昔の人なら誰でもやる程度の腕前だったし趣味といえるほどの物では無かった。やはり親父の趣味の第一は車の運転だったと思う。車を運転している時の親父はいつも楽しそうにしていたしもともと出かけるのは好きだったから、休みともなると親子4人で(というのは元々本来は二人乗りのクーペだからどう頑張っても5人は乗れなかったのだ)運転を代わりながら随分遠くまで行った。西は東名も無い時代に大阪まで行ったし新潟にも会津にも行った。三人の息子がそれぞれ車の免許を取った時には「早朝練習」と称して所沢街道を所沢の方まで運転していくのだが、ブレーキも踏めない助手席で、はらはらしながら座っているだけという普通だったら頼まれても断りたい"危険なお付き合い"を、いやな顔もせずに三人の息子それぞれにしてくれたおかげで免許取りたて直後の事故も起こさず今に至っている。因みに親父はその昔、道も無いような広い満州の原野で「無免許運転」をやった経験があったので、教習所にも行かずいきなり府中にある運転免許試験場に行って、7000円という最低記録で免 許を取ったツワモノである。その4 −5年後に取った若い私が、教習所に30,000円払った。一般的な比較で言えばかなりの高齢になるまで親父はハンドルを握るのを止めなかった。目も若干見にくくなってきた親父の交通事故を心配して、母が止めるように忠告していなければもっと乗っていたかもしれない。
親父のもう一つの趣味は多分温泉だと思う。山梨には沢山のやまあいの温泉があり、親父が子供の頃親父のお父さんによく連れていってもらったと折りにふれて話してくれた。 温泉にいくと、うだる程何度も入って温泉水を飲むのが習慣だった。家族みんなでよく朝日新聞の色々な所の保養所に出かけたが、保養所の風呂が自然の温泉である時は親父は大いにご機嫌だった。本心から温泉はからだのために非常によい物だと信じていた。     --------------------------------------
 子供にとって親との付き合いは彼の後半生との付き合いである。しかも子供が本当に子供である時代には、親を客観的に見る事はほとんどできない。だから私も親父の半分位しか見ていない訳だが親父は89才までを生きて、長所も欠点も包み隠さず見せてくれた。親父は地位も名声も残さなかったが善良な一市民としてのまじめな生活態度を見せてくれた。男の子が三人もいて誰も煙草の一本ものまないなんていうのは、世の中広くても現在はともかく我々の世代では珍しい。親父のおかげである。ちょっと気弱な一面を持っていたしどちらかというと口数は少なかった。明治生まれの男は頑固で口数が少ないという相場になっているが、子供に対しては頑固とは言えなかった。子供のやる事に対して反対する事はほとんど無かった。「三人も男の子が居るのだから一人くらいは医者になれ」というのが口癖だったが結局誰も親父のいう事を聞かなかった。それでも親父は文句も言わなかった。いい親父だったと思う。
この原稿を書きながら色々な事を思い出した。子供の頃の記憶を頼りに書いたので内容は厳密には正しくない部分もあるかと思う。書いた私の意図に反して親父の悪口に読める部分もあるかもしれない。しかし本音は、母と一緒にこの私という人間を世の中に送り出してくれた他ならぬ親父への賛歌であると理解して頂けるものと信じている。親父の冥福を祈りつつ...... 合掌平成8年12月15日(1 ヶ月忌に)


◇電気事件















◇とっとき屋







◇単身赴任








◇天風会
















◇カーキチ?









◇増富温泉








◇善良な一市民