相沢小二郎さんを偲んで

                                      大 泊  勝

 

連絡部系統技術者の大先輩の一人である相沢小二郎さんが亡くなられた。二年ほど前に脳梗塞で倒れ近くの病院で入退院をくり返してこられたが、今年春東村山市の久米川病院に転院され療養を統けておられたそうである。明治四〇年十二月のお生まれだから、もう少しで満八十九歳になられるところでした。今は長寿の世の中とはいえ、誰でも九十年の寿命を全うできるとは限りません。いかなるケースであっても死は悲しいことですが、立派に九十年の人生を生き抜かれたことに賛辞を呈したい気持ちです。

 相沢さんが入社された昭和十年は、東京朝日と大阪朝日にそれぞれNE(日本電気)式写真電送機一セット(送信機と受信機)が増設され、既設のジーメンス式と合わせて両社二セット態勢が整った時です。この年に専用電話線も東京−名古屋−大阪−門司−福岡とつながりました。わが社に本格的な機械化報道態勢が誕生した年でもあります。相沢さんは実は朝日入社前の数年間、日本電気株式会社に奉職され、写真電送機の開発に従事されていました。朝日新聞が初めて日本電気製の電送機を導入するにあたり電送機と共に移ってこられたわけです。三ヶ月程の試用期間の後、社員になると同時に電送係主任の職に就かれ、以後十数年間、わが社における写真電送技術の育成と確立に大きな力を発揮されました。技術の朝日を代表する、電気通信分野における旗手でもありました。写真電送は当時人々を瞠目させる最先端の技術でした。新聞社、メーカー、大学の研究者による電子研究会という勉強会が作られ、実用化が始まったばかりで、若い技術者の育成改善に努力が払われました。相沢さんはその世話役としても活躍され、日本の新聞界における画像通信技術の発達にも寄与されました。現在の新しいメディア技術を支える画像電子学会は、この電子研究会を母体に生まれたものです。

在社後半の十余年は編集局報道科学研究室員、航空部無線係、調査研究室兼務、総合技術研究員などを歴任され、東京オリンピック前の昭和三十七年に定年退社されました。筆者は相沢さんとは随分年が離れているので、可愛がってはいただいたが、仕事で苦労を分かち合ったという記憶はありません。昔はこうだったという話を聞かせてもらい、電送黎明期の様子を想像したものです。相沢さんが培った技術は今や朝日の写真集配信、ネルソンヘの写真の入力と紙面の出力の分野で大きな花を咲かせ、逞しく息づいています。相沢さんの活躍の跡を偲びつつ、心からご冥福をお祈り致します。

                   (朝日旧友会平成八年12月号16)

●次の見出しあり。

相澤 小二郎氏(総合技術研究室・報道科学研究部次長)

1115日午前1045分、急性肺炎のため、東村山市の久米川病院で逝去。89歳。告別式は19日午前十時から田無の総持寺大日堂で。喪主は妻秀子さん。