2000年も押し迫った12月11日、田島晴雄君が立川の病院で息を引き取った。62才の若さだった。何年か前にかかった癌の再発の結果であった。
我らが高3であった昭和31年当時は、青春のシンボルであったJames Deanの「エデンの東」がロングランしていた年。彼はJames Deanの生き様にすっかり傾倒し、彼にとって Deanの居ない人生は考えられないようであった。しかしその年Deanは愛用のポルシェを180キロでぶっ飛ばしているとき正面衝突事故を起こし、24才の若さで突然即死した。そのとき田島君の中に生きていたDeanも彼を追っかけたようであった。その数年後彼はまさにDeanのあとを追う直前まで行ったのである。彼も高速でトラックと衝突してほとんど死の世界に入りかかった。しかし天国のDeanは田島君を半身不随ながらもこの世に送り返したのである。
 しかし左半身がきかない身体でも弱音をはくような彼ではなかった。現在の佐代子夫人も彼の一途な人柄に共感し、彼を伴侶にすることを決心されて、献身的に彼を支えて来られた。
 もともとスポーツ好きの彼は左半身がきかなくても、右だけで泳ぎを覚え、球技もこなした。何でも一途に打ち込む気持ちの強さと練習で、日本のパラリンピックの水泳で優勝するという栄冠にまで到達したのである。

 実は今年になるまで、クラスメイトの誰も彼の死を知らなかった。年賀状の返事が来ないと不思議がっていた人たちに、1月半ばすぎてから、奥様から訃報が届いた折りに、連絡できる人たちで1月20日に焼香に行った。上の写真は焼香する佐藤社長。下の写真はこちらから左回りに、小杉、加藤、古川(宮崎)、稲葉(村松)の諸氏。


 「いやあ、実際子供みたいなところもありましてね.....」と佐代子夫人の思い出話に耳を傾ける榊原(長)さん。
つぎつぎに飛び出す愛情溢れる思いで話に、つい起立して彼に敬意を表する立川氏。この焼香には佐々木、米林の両君も加わっていたが、カメラの射程の外になってしまった。残念。







級友の旅立ち

佐藤 将

 六○歳を越すと、"死"という言葉に敏感になる。何故なのか分からない。訃報のファックスが届くと、以前の時よりすごく緊張する。年末に送られてくる喪中ハガキにも同じ事がいえる。人間つて、自分の身に関係あると、自然に身心がそちらに動くように出来ていると思う。他人の死を、自分に結びつけて考えるようになっている。
 このような心境になる自分は、やはり老人の域に入ったと考えているこの年始に、級友の死を知らせるハガキが飛びこんてきた。賀状のやりとりを何十年と続けてきた高校時代の友人のT君から、今年はどうしたのかなと思っていた矢先だった。
 「七年間の薬石の効なく、昨年十二月に他界しました。」
 しばし茫然自失、窓の一点を見つめ、身体が一つの石になってしまう。このシンプルな文の奥に、底に、隠された数え切れない苦しみや哀しみを思えば思う程、涙が出てきて止まらない。早速に級友達に連絡をとり、有志を集めてお焼香にゆく。
 T君の微笑んでいる遺影の前に立った時、「おまえどうしたんだ」と思わす叫びたくなる衝動にかられ、新たな悲しみが身体全体を包みこむ。痛恨の極みを実感する。級友の死が、これ程までに自分自身に悲哀をもって襲って来ようとは、全く思ってもいなかった。肝不全により享年六二歳、余りに若かった死のために、やりたい夢は山程あったと思う。
 あの秀吉も六二歳で亡くなっており、"浪花の事は夢の又夢"ではないが、どんな夢を描いて旅立っていったんだろう。二○代半ばの時、交通事故で身障者になり、数々の艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えできたT君にとっては…。
 因みに六二歳で亡くなった著名人には、三蔵法師、アリストテレス、ヘミングウェイ、浅沼稲次郎、山田風太郎などがいる。(「人間臨終図鑑」より)。

分け入っても分け入っても青い山
うしろ姿のしぐれてゆくか
何を求めて風の中をゆく
鉄鉢の中へも霰
この旅果てしもなく旅のつくつくぼうし(山頭火より)

(白泉社常務取締役)