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関東地区同期会 (最後の数字は出席者数です) (1) 1980-12-7 有楽町「初藤」13 (2) 1983-10-16 上野「タカラホテル」8 (3) 1985-3-24 有楽町「初藤」10 (4) 1992-11-29 上野「がんこ」9 (5) 1995-5-13/14 馬頭温泉「御玉の湯」8 (6) 1998-11-21新宿「はまぐり」11 (右端の欄へ続く) |
(7) 2000-1-28上野「翠鳳」15 (8) 2000-11-4(土) パレス愛下関(多数) (9)2001-11-23(金)-24 馬頭温泉「美玉の湯」(クリックしてください。写真がでます。) (10)2002-11-2(土)18:00-20:00 春帆楼(阿弥陀寺町4-2) (11) 2004年11/27(土)6:00pm東京第一ホテル下関。 (10) 2006-5-28(日)18:00-20:00 湯本観光ホテル「西京」(長門湯本) (12)2008-5-13(火)海峡ビュー下関 (13)2010-4-22(木)みちしお (14)2011-5-14(土)みちしお (15)2012-12-8(土)みちしお (16)2014-5-13(火)湯本観光ホテル西京(長門市) (17)2016-6-27(月)一ノ股温泉観光ホテル (上の項目をクリック) |
出会いは半世紀前にさかのぼる。日本が太平洋戦争に惨敗したとき、我々は7歳の国民学校1年生であった。その後、芋の葉の茎を食べて命をつなぎ、中学生になった昭和26年の春、山口県下関の片田舎にある下関市立東部中学校第7期生として坊主頭とおかっぱ娘たちの出会いがあった。それから、平和な時代の中でみんなが約50年の年輪を身体に刻んだ。
校地面積3万坪という全国第3位の広大な敷地はほとんどが山林で、「職業家庭」の時間は、その校地の開墾であった。「てみい」と称する竹製の籠に、山を掘り出した赤土をいれて、凸凹の校地を平らにしていくのは、まさにボランティアの土方作業。でも誰も文句も言わず、母校の復興のために汗を流した。
校舎は戦時中の兵舎を再利用しただけのもので、山の斜面に沿ってだだっ広く平屋のバラックが並んでいた。戦後のどさくさの中で、先生方は軍人上がりの速成教師が多く、教科内容よりも「規律」指導(?)であった。制服制帽は当然ながら、教室内の私語どころか、教師が教室に現れる前に生徒は全員起立して直立不動で先生を迎えることが義務づけられていた。教師が戸口に現れたときに、クラスの一人でも不動の姿勢が乱れ、ほんの少し動いたと言う理由で、級長は往復ビンタを食らうのが当たり前であった。
警備会社などという器用な組織はなかったので、教師が宿直と称して、交代で夜警をした。でも宿直室は生徒と先生の交流の場でもあった。「勉強教えてやるから、今日宿直室に来い」と呼ばれた生徒は、先生のために酒を買いにやらされた。帰り道、かって帰るはずの酒を少しなめて、酒の味を覚えた男もいる。
今思えば、あんなことがよく許されていたなということになるが、不思議に、教師と生徒のコミュニケーションは成り立っていた。そして生徒同士も知らぬ間に、連帯感を身に付けていたことに、今になって気がつくのである。それが50年経っても切れない絆になっていることを、この会が証明しているように思えるのである。
●集合写真上でクリックすると大画面になります●
●下のクラス写真の顔をみて名前が浮かばない方はここをクリック●
●激動の半世紀を耐えた顔顔!!
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3組(瀬戸崎先生) |
●50年後の顔をとくとご覧あれ!!上野新年会の藤井(3)、児玉(2)、後根(5)、太田黒(5)の各氏。( )の数字は組。 |
上の写真:左から片山(畑中)(3)、中野(1)、中村、松浦(北沢)(4)の各氏と左の写真は日向氏。( )の数字は組。 |