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昭和4(1929)731日正午、神戸埠頭のサイベリア丸(11,790トン)の甲板で記念写真を撮った後、最後の乾杯をして出発。送る人と送られる人との五色のテープが切られてサン・フランシスコまでの2週間余りの船旅が始まる。かつて「青い目の人形」や留学する高松宮を運んだ船だ。途中横浜に寄港した8/2には父に再会、近くで最後の食事をともにして、再度埠頭で別れを惜しむ。日本近海での船旅ではいつも家族中で一番船に強かった明も、太平洋の激しい船の揺れには自信をなくし、昼食抜きで蒼くなってデッキチェアに横になっていたことも...。しかし社交的な彼は船上でも外国人の友達がすぐに出来た。Mr. Gにはチェスを教えてもらい、次の日には教えてもらったチェスで5回勝負をやり4勝。船内では退屈しのぎに夜には余興大会(Vaudeville)が催され、乗船客が日本の尺八、歌舞伎、民謡なども披露。なごやかに過ごすうちに10日目にはホノルルに着く。1日ホノルル見物。その後8/16にサンフランシスコに上陸するまでは平穏無事に時が過ぎ、Eat, Play and Sleepの繰り返しだった。

8/16サイベリア号は、真夏なのに寒い濃霧の中をGolden Gateからサンフランシスコ湾に入る。やがて霧が晴れると、10年後には日米が戦争になるなどとはツユ知らず、日本練習艦隊「浅間」など2隻が投錨している。下船前に船上で米国移民官の尋問が始まる。他の留学生の中には英語の試験までやらされた者もあったようだが、彼は難なく通過した。上陸後早速紹介状をもっていた横浜正金銀行(のちの東京銀行、今の三菱UFJ)野口支店長を訪問して、翌日車で市内見物をさせてもらうことになる。マイカーなどほとんどない時代の日本から着いたおのぼりさんの第1印象は車の多いこと、それにビルの高いことだった。

次の日、午前中は野口支店長が車で、Market, Golden Gate Parkや博物館、日本庭園などを見せてくれるが、午後からは1人で、両脇に水車のような羽根車がついたフェリーで対岸のオークランド市の秋谷一郎氏を訪ねる。彼は非常に個性的な日系2世で日本の中国侵略や日米開戦にも公然と反対し、日系人の強制移住の補償も米議会で推進、後にはその人権活動に対してMartin Luther King賞ももらった人だ。

次に列車でロスアンゼルスへ。秋谷氏に紹介された竹田氏に時々は案内してもらうが明自身前もってよく調べてある計画に従ってよく動き回る。映画も無声映画からトーキーに替わりかかった時代。100万ドルかけて作られたというMillion Dollar Theatreにも出かけて珍しいトーキー映画を見る。しかしセリフは半分しか分からず失望。竹田氏はロス郊外のLion Farmへ案内する。太平洋戦争時に危険だというので取り壊され、今は存在しない施設だが、当時は150頭ものライオンが飼われていて、吼えるときの物凄さといったら想像以上だとのこと。

もう1つ彼が興味をもち山頂で一泊したのが、ロスから40km離れた天文台で有名なウィルソン山(1742m)。当時世界一の口径1.5m(60インチ)の望遠鏡で宇宙を覗かせてもらう。天文台見学や天文の講演も興味深く聴くが、翌朝山頂からの眺めが印象に残ったようだ。雲の波の中から四方の山頂が見えている様は丁度瀬戸内海の島々が見えているような感じだという。

その晩夜行列車でサンフランシスコに戻ると、丁度日本を経由して飛来したドイツの飛行船ツェッペリン号が上空に巨体を見せ、市民の大歓迎を受けていた。Indiana大学はシカゴの南方なので、とりあえず列車でシカゴへ向うが、途中Salt Lake Cityへ寄る。大塩水湖Great Salt Lakeは琵琶湖の9倍の大きさがあるが、比較的浅いので湖の真ん中を東西につなぐ細い土手(causeway)を作りその上を鉄道が走る。明はそれを鉄橋だと勘違いして、全長35kmの「その橋」を列車が渡りきるのに45分もかかったと書いている。音楽好きだった彼がSalt Lake Cityに寄ったのは、そのモルモン教の大聖堂にある当時世界一のパイプオルガンを聴きたかったせいだ。後に彼の友人の1人が「彼は旅行すれば必ず得べきものを握って帰ってきた」と書いているが、ここでも彼は2人の日本人を知る。一人は後に東京のYMCAを築いた菅儀一、もう1人は日本最初の宣教師と言われる有富虎之助。

その後は丸1日ひた走る列車から無限に続くトウモロコシ畑を眺めて過ごす。しかし食堂車の食事の高いのにはびっくり。肉料理1皿とパン、紅茶、果物で1ドル半(=3)。当時東京-大阪間の鉄道3等運賃が6円の時代だから日本人が高いと感じるのももっともだ。彼は列車の中でもいろいろな人に話しかけてみる。もう日本を出て半月になるが、話すのはともかく、人によっては英語を聞きとるのが難しいと感じる。子供と話していてWhite Negroかと聞かれて思わず吹き出してしまう。当時の大多数の子供にとっては(いや大人でも)日本人など見たこともないわけだし、whiteでもなくblackでもない人種は考えられなかったのだろう。

やっとシカゴに到着。ここもあらかじめ調べてあったようで、すでに当時通信販売を展開していたモンゴメリー商会、大百貨店Marshall Field、それに世界一のトサツ場Union Stock Yardsを見学。牛75,000頭、豚30万頭、羊28,000頭、馬7,000頭を900-300までの間に肉にしてしまう「恐ろしい」ところだと記す。しかし今回は全部自分で電車を使って見学し安上がりに済ます。

更にシカゴの領事館で渡米の手続きを済ませて、シカゴの南約300kmIndiana大学のある目的地Bloomingtonに向けて最後の列車の旅へ。6時間半後安着。神戸高商の講師であったSmith先生が紹介してくれたHudelson氏宅を訪ねまわってやっと落ち着く。思えば7/31に神戸港を出て16,000キロの旅を32日間かけて9/1にひとまず終り、ホッとしてベッドにつく。

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9/2は旅の疲れで寝坊。たまたまLabor Dayでどこも休みなので、Indiana大学を下見に行く。車社会のアメリカを歩いて動くのだから足が棒。喉も渇きオレンジジュースやスイカの美味しかったこと...。そして大学のホールを回っていると気持ちがふくらみ、早く授業を受けたいという気持ちになる。家に帰ってみると下宿の主人が置手紙をして「急用で一泊の外出をするので留守をよろしく」とのこと。ほんの3日ばかり前に来た他人を信頼して留守を頼んでくれたのはありがたいけど、広い家に一人ぼっちで随分心細い。しかしこれも修養だと割り切ってピアノを盛んに弾いてみる。

9/16入学。様々の手続きのあと心理学試験がある。結果があまりよくなく、日本人として恥ずかしくなり、この失敗を取り返すために大いに勉強してアッと言わせるくらいにやってみようと決心する。それからは1日中勉強の日が続く。身体を壊さぬよう運動を適当にしようとは思うのだが...

学生会館で各国からの学生が集うCosmopolitan Meetingが夕方にあり、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア、インド、フィリピン、朝鮮(当時は南北に分かれていない)などからの学生が交流する場があった。11/2にはそこで「日本について」という英語のスピーチを30分した。すると翌朝の学校新聞に"Ohoka Speaks on Japan"という大きな見出しの記事が出て、恥ずかしいような一方愉快なような気分。下手な英語を上達させようと決心する。

留学に際して彼は日本人が比較的多く留学する大都市へ行っては留学の意味がないと考え、神戸高商のSmith先生と相談して当時日本人留学生の1人もいなかったIndiana大学を選んでいた。しかし10月下旬には雪で銀世界になる寒さは大変で、インターネットもテレビもない時代に、たまに父が送ってくれる日本の新聞が日本のことを知る唯一の手段だった。授業の課題やレポートの多いアメリカでは英語のハンディもあって、勉強の負担は大変なようで、いくら食べても太るどころではなかったようだ。冬のオーバーを着けたままで体重を量ったら110ポンド(=49.5kg)だったので、裸だと100ポンド(=45kg)くらいだったろうと書いている。レインコートを買いに行っても大きすぎて身体に合ったものがなく閉口する。

そんなときに突然「父病気帰国セヨ」との電報が舞い込む。頭がガーンとして途方にくれるが、簡単すぎる電文だし、とりあえず確かめてから帰国準備に...と不安におそわれながら、一向に耳に入らない講義を受けていると、「帰国に及ばず」と再度電報が入る。肺炎の父が腸の出血も疑われたのだが、痔の出血と分かり、命の心配はない...とのこと。神に感謝。

徴兵制のあった時代の日本から留学した彼は、アメリカのArmistice Day11/11(休戦記念日)の行事には関心を示す。軍服に身を包んだ全学生が体育館に集合し、広場に出て、軍楽隊に合わせて行進し、検閲を受ける。ただ、「銃は日本のそれよりか小さく、軽そうにも見える。どうしても日本の学生の方がしっかりして見える。銃を下ろすときなど、何だかデタラメをやっているようにしか見えぬ」ときびしい。また真っ赤な服を着た美女が中隊ごとに1名合計3名割り当てられるが、兵隊に女性が入るとは...と日本との違いに驚く。

10月下旬には、下宿の主人一家がNew Yorkの娘のところへ引っ越すことになり、Yelchさんという老夫婦の家にお世話になる。日本綿花のダラス支店のT氏夫妻が回り道をして寄ってくれたり、社長の喜多又蔵氏が日本から丁寧な手紙をくれたりして、彼も勇気付けられる。一方、下宿の奥さんの写真を撮ってあげたら、「象のようね」と言われ、かえって機嫌を損ねてしまうというヘマをやる。しかし彼女は6/10の卒業式には親代わりに出席してくれたり、裏庭のサクランボでパイを作ってお祝いしてくれた。1年で学士号は取れた。教授たちにもかわいがられ、特にKennedy先生にはよく相談に乗ってもらい、お宅ではよく共にテニスに興じて、この夏休みにエリー湖畔の先生宅に滞在させてもらうことになる。

アメリカでは普通中学3年、高校3年で大学4年で卒業だとすると、明は日本で中学5年、高商4年の後留学になったわけだからプラス1年で大学卒業になるという計算は成り立つ。しかし言葉の違いを乗り越えての習得はかなり骨が折れたことだと思われる。

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