今年3月頃、過去に使った格安航空Jet Starからキャンペーンのメイルが入り、安さにつられて5月の大分行を予約して、家内と熊本・阿蘇地方のドライブを計画、宿の予約などを済ませていた。ところがその後熊本・大分の大地震でその地方は宿がほとんど使えない状況になり、道路も寸断されてしまった。宿はキャンセルしたが、格安航空はキャンセルが出来ない仕組みになっているので、やむを得ず、行き先を変更して、別府の温泉付近と北九州、それに私が60年前に住んでいた下関市付近を家内に案内することにして、大分からのドライブに切り替えた。以下そのときの日記を紹介させていただこうと思う。
5/10(火)
早くウチを出たのだが、途中の交通機関の連絡が悪く、成田第3ターミナルに駆けつけたのは、飛行機離陸時間の30分前。格安航空のオーストラリア系Jet Starは離陸時間30分前からチェックインは一切受け付けず、払った運賃も返還されない仕組み。でも事前にネット上でチェックインを済ませていたので問題なく搭乗口へ。雨のため大分空港は霧で場合によっては引き返すことを承知で乗ってくれとのアナウンス。搭乗してもサッパリ動かず、イライラが溜まる。
やっと離陸。まだiPadのグーグルマップがしばらく使えるので、飛行中の位置を確認。搭乗機がは堀切、西荒井、赤羽、練馬、東村山、八王子上空を通過するのが確認できる。しかしそのあたりで、高度も上がりネットの電波を捕らえなくなった。
しかし雲の中をあまり揺れもせず、航行を続けて、やがて下降のアナウンスメントが流れ、海面が見えてきたと思ったら着陸していた。30分近く遅れて成田を出たのに、ほぼ定刻に大分空港に到着していた。
連休の時期は終わっていたので、空港のレンタカー・カウンターもガラガラで、出迎えたシャトルバスに乗ったのは我々2人だけ。実に丁寧に対応してくれる。しかし雨は激しくなる。途中のローソンでオニギリやサラダを仕入れて腹ごしらえ。別府市街のホテル・サンバリーを目指す。カーナビは的確。ホテルも3時チェックインなのに2時半で入れてくれる。しかも鉄輪温泉のひょうたん温泉という名物温泉への入場券までついて、1泊朝食付で1人5,130円。
10階に温泉の大浴場があり、別府湾を一望できる。反対側には別府富士? やや古い温泉旅館のようだが、大きな湯船を独り占めして、リラックスする。
夕飯のために外に出る。海が近いが意外に魚料理は少ない。トンカツ屋に入る。近くで取れる梅を挟み込んだカツ。カリカリに揚がっていて絶妙な味。ソースも自分でゴマを擦り潰してタレを入れて作る。タルタルソースもあり、おろしソースもある。味噌も赤と白から選び、ご飯も麦入りと白米から選ぶ。太いエビ天もついて1,650円だがら素晴らしいもてなしの感がある。
5/11(水)
今朝は曇っているが午後は晴れだとの予報。悦子が近くに高崎山があることを見つける。車で12分のところなので、早速出かける。まだ朝早く開園したばかりで猿も姿を現さないという。とにかく唯一のお客様として園内を上がる小さなモノレールに乗り、猿が出るという広場まで案内される。拡声器が奇妙な鳴き声の録音を大声で流し、森の奥に隠れている猿にがなりたてるが、1,522匹もいるというのに全く反応がない。昨日の雨で、出てきた猿が雨宿りをしたらしく、お寺の庇の下にはフンが方々に散らばる。ここは万寿寺という大きな寺の境内。何しろ寺が出来たのは昭和の初期なのに、猿はそのずっと以前から、そこを住処にしている原住民。この猿の世話をして42年になるという世話係の男性は人より猿に親しみを感じているようだ。またここに1年365日間通って、猿とランデブーをするのが唯一の生き甲斐という退職老人も類人猿のようだ。
30分近く待っても一匹も現れないので、帰ろうかというときに、誰かが「猿がでた」と叫ぶ。やがてゾロゾロと姿を現した猿の群れ、ちょっと見ても100匹以上はいる。猿園を囲んでいる柵を猿は反対側から自由に人間のいるこちら側へなだれ込む。シワクチャの顔、大きいのも、小さいのも、素早いのもビッコのも。3日前の連休に生まれたというのまでも、母親のお腹に抱えられてヒョコヒョコあたりを飛び回る。小さなブランコを楽しむガキ猿、ケンカをしてキャッ、キャッと大騒ぎの若猿。手前のアスファルトの上でごろ寝して日向ぼっこの怠けザル。高いポールの上で威勢を張るボスらしい猿。大きな岩の上には大きな集団がそれを引き連れたボスを中心にたむろする。やがて麦の入ったカゴを持った飼育員が現れると、状況をつかんだ猿が一斉に取り巻く。撒かれた麦を小さな指で丹念に素早く地面から拾い、手早い動作で繰り返し口へ運ぶ。小さな小粒の穀物を配るというのは強いサルが独り占めできないようにするために飼育員が考え出した妙案だとか。それでも、高いポールの上に居るボス猿には特別に彼のために配給が施され、彼はゆっくりと自分の特別な食事を邪魔されずに食べる権利が与えられている。このボスの配下には数百匹の部下がいるが、彼はわがままで仲間の信頼は全くないと飼育員は説明。それでもサル社会の代表として尊重して扱われる。人間の社会の原型であるサルの社会は人間社会の鏡で、怠け者もいて周りの猿に軽蔑されるが、一応社会全体は維持されるという。どこかの国の状況にソックリ。先代の猿のボスは死期が近づいたら、見つからないところに隠れて、自分だけで死んで行くそうだ。飼育員がいくら探しても見つからず、行方不明の宣言をする。謙虚で崇高な猿知恵には及ばないようだ。
今日はこのあと下関へ向かう。東九州有料道路がやっと最近になって関門橋まで通じたというので、期待したが、まだその多くの部分は片側1車線の狭い高速道路だ。料金は巾の広い道路と同じだけ取られるので、大分から北九州まで4000円近くにもになり、不満が残る。大型トラックが前に行くと、追越車線があるわずかの場所まではノロノロと後ろをついていくことになり、高速道路とは名ばかりで忍耐が必要。それにサービスステーションがほとんどなく、休息を取ろうと思っても走り続けるしかない。サービスエリアがあっても小さなトイレの他には、無人の飲み物販売機が置いてあるだけで、不便だ。やはり過疎の影響はこんなところにもでてくるのかなあと思う。
とにかく何とか関門海峡まで到着。門司港のレトロのタウンを見る。60年前私が下関にいた頃は下関とこの門司港の間には頻繁に連絡船が往復し、山陽線の下関駅に列車が着くと、長い海底トンネルに入るため蒸気機関車を煙を出さない電気機関車に繋ぎかえる作業で、列車は10分くらい停車した。当時はなかった大きな吊橋や車が通れる海底トンネルもなかった時代でも交通の要所ではあったこの海峡の両都市には歴史的遺物が多い。商取引きの玄関口ではあったので、大手物流会社の倉庫や建物がいまだに並ぶ。その1つ、三井の商館は当時、来日したアイシュタイン夫妻が泊まったという部屋が公開されている。彼が毛筆で書いた大きなサインが額に入っていたり、彼が使ったベッドや西洋式のトイレやバスタブまでそのまま残されていて驚いた。当地の出身、林芙美子の記念館もある。。
わが母校下関西高へ行ってみる。静かな授業中。構内もチリ一つなく整然として、当時の進学校の雰囲気をまだとどめている。校門にも校名が探すのが難しいほど小さく書かれているところなど奥ゆかしさのようなものが家内を感動させる。
今日の宿、「海峡ビュー下関」へ。関門海峡と関門橋が目の前に広がり、狭い海峡を色や形の様々な船が忙しく往来する。海峡は常に速い流れが生きている。その中をひっきりなしに大きな汽船がすれ違うのは安全上大丈夫かなと思わせる。大型の四角な車運搬船。大きく中国語の書かれた船が満載のコンテナを積み上げて入港していく。海外との交易が実感として伝わってくる場所でもある。夜になると吊橋を支える大きな円弧のワイヤーは電飾で幻想的な雰囲気になる。海峡の両岸の街の明かりが海面に映り、その上に吊り下がる輝く巨大な首飾り。その前の黒い水面を明かりで輝く船がゆっくりと進む。広大で幻想的な美しさ。
夕食はホテルで取る。魚尽くし。刺身、酢の物、煮物や細かい手作りの料理が並ぶ。ご飯も白い素炊きと魚の混ぜご飯から選ぶ。デザートがふるっていて、果物の切り身を、脇に置かれたチョコレートの泉に付けて食べるチョコレート・フォンデュ。海峡と吊り橋の夜景が背後に迫る中で、いい気分で楽しむディナーだった。
5/12(木)
今日も快晴。朝から関門海峡の往来は忙しい。LNGや巨大なコンテナ船が漁船に混ざってドンドン通過する。小さな漁船が衝突しないのが不思議なくらい。関門橋の上も四角い箱を背負った大型トラックが往来する。今の運輸手段は大型船かトラックであることがよく分かる。朝日が関門橋の橋脚に反射して光る。
今日はまず壇ノ浦の古戦場から。車で5分くらいのところで見つけるが、駐車場がなく、ゆっくり通過しながら家内に説明。そのまま唐戸の魚市場へ。フグを縁起をかついで「ふく」(福)と大きく書いた店が連なる前に巨大なハリボテのフグがグロテスクに並ぶ。しかし一緒に写すと記念写真にはなる。市場の中はセリはすでに終わっていて閑散としているが、店はこれからがかき入れどき。家内がヒジキを買いたいと言う。ついでに乾燥エビや大きな昆布なども買う。
城下町長府へ。鎌倉時代の社が国宝に指定されている功山寺を訪ねる。苔むして崩れかかった石段を何とか登ると、お坊さんから丁寧に挨拶を受ける。鬱蒼とした深山の雰囲気の中でしばらく休みながら昔を偲ぶ。
次いで毛利家の屋敷に。毛利元就の銅像の奥に、明治天皇や皇族が滞在したという広い毛利家の屋敷があり、公開されている。中の日本庭園には滝が落ちて大きな音を立て、大きな和室が20室くらいでその庭園を取り巻く。こんな豪邸が近くにあったとは60年前すぐ隣の小月に住んでいた頃には気がつかなった。その小月にも向かう。その途中にある母校下関東部中学校に寄ってみる。1ヶ月後に喜寿の同期会をする予定で、その幹事の1人なので、何か資料も欲しかったのだが、時代も代わっているので中に入る勇気は出なかった。
JR山陽線の小月駅へ。無人駅になったと聞かされていたが、切符売り場にはパートの女性らしい人影が見えた。でも60年前には北の俵山温泉行きの私鉄、長門鉄道があったところには空き地があるだけで過疎化がここでも進む。駅から10分くらいのところ、昔住んだ杉迫地区にある元市営住宅はまだ昔の戸建てが残っている。しかしすぐ裏には新幹線と中国自動車道が走り、ときどき雷のような轟音と共に弾丸列車が通過する。これが時代の変化を象徴する。
山口県の西海岸を北上する。今日の宿泊地、「角島」近くの西長門リゾートへ。菊川の道の駅で野菜や果物を仕入れて、今日の栄養補給に備える。田植え前の田舎の田園風景の中を車はゆっくり進む。緑の段々畑の中を2車線の国道が曲がりながら続くが、車はまばら。やがて道は海岸スレスレを縫うように走り、角島への長い美しい橋がみえてくる。ちょっとフロリダのキーウェストへ行く海の道を思い出す。海の色も関門の濃い緑から、明るい青色に変わる。白い砂浜も見える。リゾートはその人気のない海岸沿いに低く伸びる。チェックインして驚いた。ベッドルームの海に面する側が全面大きなガラス張りで、眼前に日本海が広がる。家内がシネマスコープだねという。ベッドだけでなく、応接セットも置かれた広いスイートルームだ。しかも温泉。しかし浴場までは階段や長い廊下を進んでやっとたどり着く。露天風呂に入って海をみると温泉の水面がそのまま海面に続いているように見える。海全体が温泉のような錯覚を覚えるから不思議。
午後7時過ぎになって海の向こうの角島に太陽がゆっくりと沈んでいった。しばらくぶりに見る感動的な夕日だった。
5/13(金)
今日も素晴らしい天気。日本海を見渡す270度全面ガラスの食堂で朝食。若者も多い。
今日は別府までかなりの距離をドライブ。ホテルを出て間もなく、「人類学ミュージアム」という看板が目につき、入ってみる。昭和初期に発見された「土井ヶ浜遺跡」。弥生時代まで遡る人骨が出た山だ。下関市が管理し、発掘現場は大きなドームを被せて人骨が発掘された状態で再現している。父と子が抱き合ったまま埋葬された墓、沢山の槍を突き立てられたままのような英雄の完全な人骨、抜歯したあとを埋めてない女性、集団で折り重なるようにして発掘された頭蓋骨の山。60年前には私もこの近くに居たが、話題になったことすらなかった。人骨ドームの付近はまだ手付かずの自然が残っていて新鮮だ。緑といえば人工的に植えられた芝とか花などしかない東京から来ると、野生の草が力強く生えている場面に出会うだけでも独特の爽快感がある。
海岸沿いにの2車線の国道をゆっくり下関へ。脇には60年前と同じ山陰線が単線で走るが、ときどきすれ違う汽車はディーゼルの1両だけ。昔は蒸気機関車が少なくとも5両くらいは引っ張って走っていたように思う。過疎の地方は鉄道も廃れて、チョロチョロ走る軽自動車が人々の足になっている。
西長門地方では、小さな町はあってもコンビニさえほとんどなかったが、道路が下関に近づくにつれて多少の賑わいが出てくる。同時に道路上の車の数も違ってくる。
とりあえず中国自動車道の壇ノ浦パーキングに入って、関門橋を眺める。橋を吊り下げている直径1mものワイヤーが置かれ、1万本以上の細いワイヤーを細かく織り込んだ切断面が展示されている。九州自動車道に入り、北九州空港付近までは4車線で快調に進む。しかしそのあと間もなくまた片側1車線の田舎高速(?)になり、ノロノロ。それでも予定より早く、2時半には国東半島の南岸、ソラージュホテルに到着。今日は和室だが外の景色は別府湾の向こうに大分県本体の工業地帯が霞んで広がっている。近くは干潟になっていて白鳥が餌をついばむ。どうやら養殖用の柵らしいものも海の中から頭を突き出す。
温泉はやや茶色っぽいヌルヌルしたお湯で、やや低温なので、ゆっくりできる。シジュウカラのような鳥が露天風呂の湯船の周りにきてダンスをしてくれる。遠くには霞んだ連山がボォっとしたスカイラインを作り、その前の白い灰色の海に黒い舟影が浮かぶのも幻想的な風景。ここも実に静か。ここからとおくない南阿蘇では地震の後始末で大変な状況になっているのが、ウソのように感じられる。 <終わり>
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