農場散策---森林散策---森の野鳥たち
たまたま家から徒歩10分ほどのところに東大の農場と演習林(森林)があり私の毎日の散歩コースになっている。40年前には人口14万だった西東京市も、新宿まで電車で20分の通勤圏のせいか、今や人口20万を擁するコンクリートにおおわれたの市街地になった。その住宅密集地に囲まれて、田無駅から徒歩10分のところに10万坪・東京ドーム7個分の広さの農場や森林がある。この一帯が武蔵野の雑木林だった1935年に駒場から移転してきた東大農学部の飛び地だ。国立大学法人化で予算が削られ、2003年にはここを売り払い千葉に移転することが決定されたこともある。しかしここは東大の演習林も隣接して存在し、市民の移転反対運動も盛り上がり、逆に千葉・神奈川の施設を田無に吸収することが合理的という判断になった。もちろん東大が管理する国有地だが、ウィークデイには一般市民の散策に開放されていて、我々は都会で浩然の気を養うことができる。
実際、3/11の大地震のときも、私は奥の森林の中を歩いていた。突然グラグラと来て、周りの巨木と大枝が大風を受けたようなザワザワという音を立ててひどく揺れた。まるでマクベスの森が攻めてくるのを連想させるような状況だったが、太い根がはる小道は地割れが起こる心配もなく、逆に落ち着きを覚えて、むしろ古い我が家が倒れていないか心配になった。
田無駅北口の階段を下りて真っ直ぐ北へ500m歩くと大きなヒマラヤ杉に挟まれた正門に出る。かつては週6日開いていた門も今では4日(火水木金)だけとなったが、正門を所沢街道に沿って西へ700m行った演習林(森林)への門からは月曜日も森林だけを見学できる。
農場正門を入ってすぐ右の2500uくらいの場所は大きなパンパスグラスが白い穂を風になびかせ、以前はタイム、ローズマリー、ラベンダー、バジル、レモンバーム、フェネル、甘茶、ウコン、コウゾ、ミツマタなどが育てられていて珍しい場所だったのが、3年前からここをつぶして市民がヒマワリの迷路を作る場所に転用された。東大のお膳立てで6月中旬に小学生や市民が種蒔きをし、8月のお盆のころに「迷路」として一般に公開している。2週間の迷路公開期間に4000人もの市民が訪れるそうだ。
門を入って左側の塀に沿って100mくらいソメイヨシノの巨木(老木?)が林立していて、その長い枝は右側に大きくせり出して垂れ下がり、春にはピンクの分厚い天然の傘が出来る。その下は天然の緑のじゅうたんで隣接する幼稚園や保育園の児童に一般の市民も加わって自然に親しむ。このシーズンには市も応援するサクラの名所となって土日にも開放される。
門の右側のヒマワリ畑に続く1ヘクタールの土地は、農地の肥沃化の実験場所。有機、無機などの肥料の割合をかえてトウモロコシ、大麦、大豆を順番に育てて、収量や植物の成分、土壌を調べているようだが、石油の値段が高騰した最近ではガソリンに代わるバイオエタノール・ブームで食料生産はどこかへ押しやられ、実験的に、実をつけない「エネルギー植物」と言われるバイオマスの最先端植物・エリアンサス(Erianthus)やジャイアント・ミスカンサス(Giant Miscanthus)などが雑草のお化けのように繁茂していて時代の大きな変化を感じさせる。それにしてもこの「雑草のお化け」は温室を含む農場のいたるところに植えられている。いわゆる伝統作物に取って代わり、我々人間がオマンマの食い上げにならないか心配になってくるほどだ。何ぶんにも、これらは遠縁の植物を掛け合わせて作った高価なハイブリッド品種で単位面積の収量が倍増するだけでなく、多くの「利点」があるようだが、土壌との相性が難しいという。また奥の方ではナタネをバイオディーゼル燃料に利用する試みも実行されている。
その「巨大な雑草」のさらに先の1ヘクタールには昔ながらの野菜栽培の実験畑がつながる。ここは日焼け防備姿の学生が毎日実験に取り組んでいる。農薬や化学肥料を排除して、除草せずに、土の微生物が出す窒素を利用して野菜を栽培する試みが行われている。またトマトなどの葉・茎の成長と実の成長とのバランスをとる研究や栽培管理の際の時間・空間的バラツキと気象・土壌などの関係を調べることも行われているようだ。
道路を隔てた西側の陰にぶどう棚がある。ここのブドウも時々売りに出されるが、味は古来の原種に近く、市場に出回っている甘さを中心に「改良」していない種のようだ。昔のブドウの酸っぱさと甘さの懐かしい味。ただ、ここでは近年増えた大気中のオゾンにブドウを曝して光合成への影響などを研究しているらしい。
北へ伸びる道は、やがて巨大なモミジのトンネルへ。その木々の右下方向にオトメツバキの生垣が続く。すべてが冬枯れした殺風景な中で、ピンクの多層の花弁がギッシリと巻くここの椿は冬の寒さの中で近い春を感じさせてくれる。その先に木々の間から農場の事務棟が見えてくる。この横や背後には古い瓦ぶきの木造宿舎やプレハブの教室棟が並ぶ。今どきめったに見られない板張りの外壁は長年風雨にさらされて所々に穴があいていてボロボロだが、却ってこのひなびた環境には自然におさまる。戦時中は、日本の「南方領土」での農業開発指導に当たる要員を養成する「熱帯農業員養成所」がここに付設されて、学生はこの寄宿舎などに泊まりこんで研修に励んだ。
事務棟の正面にぶち当たった道はその両側に分岐する。右に行くと鉄パイプで垣根を設けた牧草地に突き当たる。ここには最近までダチョウが6羽飼われていた。親のツガイと子供4羽が、なかなか愛嬌者で、見るとすぐに近づいてきた。カメラを向けるとよくダンスを披露してくれたこともあった。かつては農場内で牛を飼っていて1日2600本もの「東大牛乳」を販売してもいたが、近隣から臭いと苦情が出て、臭くなくておとなしいダチョウに切り替えたとか...。この鳥は育ちが早く、夜も外で寝るし、餌も簡単な上に、鶏卵の30倍もの重さの卵を産む。それに1羽、150キロもの肉も食べられるというわけだ。ただ卵の孵化率とヒナの生存率が低いので、その対応が課題だったようだが、研究が一段落したというので、2010年の春に埼玉県のダチョウ園(並木屋)に移されて、あたりが急に寂しくなった。これで飼育されていた動物はすべて姿を消し、餌を栽培していた畑はバイオマスの栽培に切り替えたようだ。
ダチョウが居た一角の前の道を進むと、左側に「花卉(かき)栽培温室」がある。ここは入れないし中も雑然としているが、卉とは草のことで花に観葉植物なども加えた温室のようだ。温室の脇には巨大な葉を千手観音の腕のように伸ばした外国産アロエと、夏にピンクと白い花を振りまくようにつけるサルスベリが大きく広がる。さらに進むと春遅くまで咲き誇る八重桜、山桜、右の角には巨大なアジサイ。これは太陽を全身に浴びるせいか、その時期には葉が目に入らないくらい花が密集開花する。
交差する道を横切ると遠くに、北大にあるようなポプラ並木が見えてくる。そこまでの150mの道の両側は4月中旬には花水木が満開になる。ピンクの花と白い花の木が交互に植えられていて、それが新緑を背景に見事な淡い縞模様を作る。右側の並木の背後はやはりバイオマス、芋、麦、ソバ、トウモロコシ、野菜、米などの場所、左側は梅、栗、桃などで、3年前に湘南の二宮果樹園が閉鎖されて、一部この周辺に移転合流したもの。野菜畑ではコンニャク、ウコン、落花生、チンゲン菜、ミズナなども作られたことがある。
田無のある関東ローム層は、約1万年前に今の前の富士山が爆発したときの火山灰が1mも堆積したため、水はけが良すぎて、田んぼが作れない。だから「田無」という地名が出来たらしい。しかしこの農場にはそれにあえて挑戦して作った1.4ヘクタールの水田が北東部にあり、収穫されたお米が農場で一時期販売される。人気があってすぐに売り切れるが、「田無米」もなかなかのものだ。もちろん市民に食べてもらうのが目的ではなく、「イネの耐乾性」や「遺伝の変異」、更に「イネのバイオエタノール化」などの研究が行われていて、学会でその成果を認められているようだが...。
先ほどのポプラの並木がすぐ前に続く。このポプラは北大のもののようにこの農場の象徴的な存在で、牧場の雰囲気を作るのに一役かっている。しかし一昨年全部の伐採が決定された。ポプラという木は生長が早く20年もすると大木になるそうだが、根が深く伸びないそうで、台風などにあうとすぐに倒れてしまうらしい。これらの「老木」も危険だという判定がくだり、伐採と決まった。でも皆に惜しまれていて、存続を望む声にも押されて、いまだにそのままそびえているが、枝が落下して危ないと言うので、付近は立入り禁止になった。しかしここで撮った写真を見せると、多くの人は「北大に行ってきたの?」と聞く。毎年5月下旬には綿のような花が散って、木の下は雪が降ったように白くなる。促成栽培が効くので、一時は木材としての活用が考えられたようで、品種改良で変種のポプラがあたりにも沢山植えられている。一見ポプラには見えない変種の大木もあるが、白い花が回りに沢山散る時期はそれと分かる。
ポプラ並木の西側は、かつてはダチョウの放牧場だった。広い静かな草地を与えられて、ダチョウは羽の色艶も良かったし、表情もしぐさも落ち着いているように見えた。そばには当時、牛舎やサイロもあり、ポプラ並木とともに牧歌的な雰囲気を盛り上げていたが、それもダチョウが居なくなるとともに全部取り壊された。
並木の東側は最近まではアルファルファなどの牧草栽培地だった。牧草が育つと大型のコンバインが広い牧草地を動き回って刈り取り、上の煙突のような口から、刻んだ草を弧を描いて放り出す。それを併走している収集車が荷台にうまく受け取りながら進む光景があった。それを見ていると自分が東京にいることを忘れる。
花水木の入口のところまで戻り、西に向う。右には水道タップが沢山ついた洗い場がある。農学部の学生はときどき実習があるらしく、ここで20人くらいの学生が大根などの野菜を洗っているのをたまに見かける。
その先は緑の草の中に農機具小屋や車庫が並ぶ。四面を板で囲んでスレート葺きの屋根を乗せただけの窓のない建物が草の中に無造作に立っている。ここを通ると、どういうわけか、いつもアウシュビッツ(ビルケナウ)強制収容所を思い出す。まわりを板を組み付けただけの朽ちかけた建物が草地にじかに配置されているたたずまいが全く同じだからだろう。しかしこの草地は春には青い小さなオオイヌノフグリ、タンポポ、赤い野草のヒメオドリコソウ、黄色いホトケノザなどが色のついた星が散らばったように咲き乱れる平和なところなのだ。
この右手一帯は栗林で、道を隔てた西側は桃、イチジク、柿などの果樹園が広がる。ここでは受粉の時期や余分の蕾を摘むことなどもきちんと管理されていて、果肉をまずくする桃の生理障害「赤肉症」の原因究明も取り組まれている。紙袋に包まれていないものも散見され、5月の緑一色の中に真っ赤な桃が点在する様は美しい。ここの桃は農場事務室でよく売られていて、小さめだが甘くて柔らかく、期待して待つ人も多い。秋には毎年栗も事務室前で売られるので、我が家でも栗ご飯にして食べる。
事務棟の西側奥には、「農場博物館」という切妻屋根の平屋がある。昭和9年に建てられた牛舎を改築して2007年11月に開館した。今でも当時牛乳や飼料などを運んだトロッコの軌道があり、レール上で方向転換する装置まで残る。ここには戦前戦後の日本の農業を引っ張ってきた農具が陳列されている。かつて我々が幼少の頃見た手回しの脱穀機から始まってエンジン付きの小型の耕作機械類までがずらりと置かれている。戦後の人力と手作業中心の日本農業から機械化が求められた1950年代にここでは全国に先駆けて農作業の機械化に関する研究が精力的に展開され、次々に新しい機械を現場に送る基地でもあった。近隣の高齢退職者などがボランティアで説明や案内に当たっていて、毎週2回(火金10:15-14:45)に開館しているが、訪れる人は少ない。
昨年からこの農場も「生態調和農学機構」というややこしい名前になった。農業が単に食糧増産を目標にしていた時代から、植物DNAの解明に伴う開発環境の変化、地球環境や生態系の変化から、ストレス負荷を背負った中での成長や農業のエネルギー問題への関わりまで含んだ総合的な研究が必要になったことの表れのようだ。
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