囚人とアボリジニ 成功した人たち オーストラリアの自然 木の上のロッジ オーストラリア語 トラブル ゴードン河クルーズ オーストラリアの人たち グレート・オーシャンロード その他いろいろ
南半球は真夏のはずの2月6日から22日まで、オーストラリアのタスマニア島一周とメルボルンからアデレード近くまで走るグレート・オーシャン・ロードを弟のO君とドライブした。極寒の日本脱出が目的でもあったが、日本は暖冬で小春日和なのに、真夏のはずのタスマニア島、クレイドル山では暖炉を炊くほどの寒さで文字通り冬と夏が逆転した。北海道とほぼ同じ緯度にありながら面積も北海道の80%というタスマニアだが、2万年位前に地殻変動でオーストラリア大陸から分離して、独特の歴史と自然を持つ。一方メルボルン南に200キロにわたって見事な海岸が続くオーシャンロードは自由で明るいオーストラリアを象徴していた。以下その旅日記を編集してみた。
親から虐待を受けて育った子供が一人前になっても血縁関係が切れずにいるように、いまだに生みの親イギリスとの縁を切れないでいるオーストラリア。しかしイギリスは自分の生んだオーストラリアを自国の監獄として「育てた」。イギリスが1788年に初めて囚人を送りつけて以来65年間、英国の監獄であった国の痕跡はいまだに残る。特にタスマニア島では1820年代にイギリス軍が原住民のアボリジニをほとんど完全に虐殺した。島には彼らが生存したことを示す遺跡すらないほどだ。だから、タスマニアではアボリジニのことはほとんど話題にならず、そのあとで築かれた監獄や囚人(convicts)の歴史だけが記憶されている。当時のイギリスでは下層階級は軽犯罪でも犯せばただちにオーストラリアへ「島流し」にされ、「好ましくない階層」は排除された。当時のイギリス政府には一度犯罪を犯した者を更正させるとか社会復帰させるという発想はほとんどなく、以前のライ病患者のように、一般社会から隔離して見捨てた。地球のずっと下の方(down under)の未開の島は、囚人を捨てるには格好の場所であった。貧しさからパンを1つ盗んだために荒れ放題の島で残酷な生活を強いられ、祖国と永久に別れる運命になった人も多いという。
世界中で、「他の国の監獄であったこと」をその起源に持つ国はオーストラリア以外にはない。これは今のオーストラリア人にとっても誇らしく思えることではないようだ。タスマニアの州都ホバート(Hobart)でパブ・ツアー(pub crawl)というのに参加してみた。ホバートはオーストラリアではシドニーに次いで古い町で、古いイギリス風の建物が独特の雰囲気を作り、パブもたくさんある。港近くの由緒あるパブを巡りながら、試飲に出されるワイン、シェリー、ブランデー、ジンを賞味しながら、この町の酒にからむ話を聞くというものだ。ガイドのElizabethさんは聞きやすいきれいな英語を話す。今まで会ったガイドは妙な英語を話す人たちだったのでAre you really an Australian?と聞くと、冗談じゃないよと言わんばかりの態度でNo, I’ve been here only 27 years.という。27年居てもonlyなのかなと思っていると、28年前男性を追いかけてイギリスからここに来たら、仕事がなくてガイドをはじめたと言う。でも自分がオーストラリア人と思われるのは気に入らないらしい。「オーストラリア人に祖先の事を聞くのはタブーですよ」という。「たとえ、ちょっとした盗みでこちらに送られる羽目になったとしても、おじいさんが囚人だったというのは愉快なことではないからね」と付け加えた。
ホバートの南方に、陸の孤島とも言うべき、ポートアーサー(Port Arthur)がある。ここは島流しの国の中の島流しの場所だ。つまりイギリスから送還されてきて再犯を重ねた重罪犯ばかりを収容した特別な監獄だそうだ。これが作られた1840年ころは陸路の道はなく、ホバートから船で何時間もかけて囚人を運んだらしい。しかし肝心の監獄をデザインしたのも囚人なら、建設したのも囚人。そして挙句の果てに入監したのも囚人というから人手不足は相当なもので、囚人は労働力を補う奴隷であった。中でも造船は急を要し、技術に長けた囚人の働きで、相当の実績をあげたようだ。最初は200人の囚人を50人の管理者で動かしたらしいが、そのうち30,000人も収容するようになり、ほとんどは10代の若者で名前の代わりに番号をつけられたという。そこを訪れる観光客も、当時の「奴隷」の足に科せられた重い鎖を体験させられたり、実際に再現された仕事場で仕事を体験できるようにできている。監獄は当時、高い塀に囲まれていたらしいが、中には囚人のための教会、1万冊を超える蔵書をもつ図書館があり、作業場なども併設されて、本国の意向とは異なり矯正させようという意図もかなり感じられる。
一方囚人が建てた管理者側の立派な施設も近くに出来ていて、その中心には天を突く尖塔をもつゴシックの管理者専用の教会堂がある。そして監獄と管理施設との間には広々とした芝生が広がり、その中の所々に生えた大木が大きな影を落とす。ここに立っていると、ここが本当に囚人たちが苦闘した場所かと思うほど美しい。やがて1853年にオーストラリア側の抗議が実って、イギリスから囚人を送らないようにさせることに成功すると、囚人たちは普通の人間として解放され、普通の社会ができたらしい。そこで得た自由の気持ちはオーストラリア人の心の中心にあり、この国の基盤だという。
イギリスの監獄島になる前、オーストラリア大陸には4万年も前から原住民アボリジニが住んでいた。しかしヨーロッパからの入植が始まった1788年に30万だった人口も、植民者に殺されたり、疫病にかかったりで今では23万程度らしい。平均寿命も低く、彼らの約半数は50才までには死亡する。彼らは遊牧民だったので自分の土地を所有するという概念がなく、白人が入植して土地を所有しても、何が起こっているか理解できなかったらしい。最近になって、政権によって本来の所有者である彼らに土地を返す機運が起こったりすると、あとで住み着いた人たちはパニックになり、アボリジニに対する反感も大きくなるという妙な現象が生じているようだ。
メルボルン市街で最も大きいと言われるKoori Heritage Trustというアボリジニの博物館を訪ねてみる。所蔵物は多いそうだが、意外に小さな建物で展示スペースも狭い。彼らが得意とする木工の中でも、カヌーを作る技術は卓越しているようだ。見事なカヌーが並ぶ。しかしどういうわけか撮影禁止である。これでは彼らの文化が広く知られる機会も失われる。
メルボルン西方の山の中にあるGrampians国立公園の近くに、Bunjil Shelterと呼ばれるアボリジニの大きなコミュニティ跡がある。途中、道路の案内板が小さくて少なく、この辺りでは極めて珍しい凸凹の砂利道を進まないと行けない。従って到着してもわれわれ以外に誰もいない。直系10メートルくらいの石がゴロゴロしているユーカリの荒野だ。その巨石のくぼみをアボリジニの祖先が住居として利用していた形跡があり、穴倉にははっきりとした壁画が残されている。さすがに壁画の周りは金網で保護されていたが、それがなかったら、そのような歴史的な遺産の場所だとは誰も気がつかないだろう。この遺産の保存の仕方を見ただけでも、かなりの差別は歴然としている。
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