9月11日のテロで日本政府はフィリッピンの一部を危険地域に指定した。そのため過激派アブサヤクの拠点があるとされるミンダナオ島に比較的近いリゾート地のセブ島も、それまで大多数を占めていた日本人観光客が一挙に5%にまで激減したという。そこでフィリッピン航空などでは便数を減らして対応しただけではダメと判断したらしく、航空運賃を下げての復活キャンペインで、航空運賃に3泊4日のリゾートホテル代・朝食込みで37,800円というのを始めた。暖かいところへ行きたいという家内と共に、安さにつられて、危険を顧みず(?)、参加してみた。
セブ島はほぼフィリッピン群島の中心にある石川県くらいの広さの縦長の島で、巾は広いところでも30kmくらいしかないが、そのほぼ中心の西海岸に、フィリッピン第2の都市セブ・シティがある。目的のパシフィック・セブ・リゾートはセブ・シティの対岸にあって橋でつながれたマクタン島という三宅島くらいの大きさの島の西海岸にあるリゾートホテルのひとつである。セブ空港もこのマクタン島にある。
3月3日、成田を午後3時近くに出て、4時間半、機上では、美しい180度の夕焼け空が暗くなったと思ったら、いつの間にか着いていた。今回はパック旅行なので、冷房つきのバスでホテルへ送ってくれる。東京の夜景に慣れている目には、暗闇に近い狭い道路を、工事で掘り返して放置してある盛土を避けながら、運転手は巧みにバスを操って進む。すでに夜8時を回っているせいか、屋根付きの屋台を連ねたような、道路わきの店も、ところどころに裸電球がぶら下がっているだけで、暗くてよく見えない。ときどき急に、子供がたむろしていたり、やせた犬がゆっくり歩いてゆくのをヘッドライトが捕らえる。かと思うと、今にも倒れそうな掘建て小屋の前で、老婆が一人じっと座っている姿にライトが当たる。こんなところに本当にリゾートがあるんだろうかという心配が、バスの中全体に妙な沈黙を生む。20分も乗ったかなと思ったころ、Pacific
Cebu Resortのネオンが道端の壁に見えた。
目の前にのしかかるような黒い鉄格子の門を、軍服のガードマンがゆっくりと開けてくれる。でもホテルらしい高い建物などは見あたらない。門を入ってしばらく行くと、ワラぶきの大きな屋根の建物の、壁のないロビーのようなところでバスは止まった。ロビーの片側にカウンターがあり、そこでチェックイン。カギをもらうと、愛想のいい黒顔のポーターが、荷物を持って、広い庭に点在する長屋のようなコテッジに向かって、暗い道を部屋まで案内してくれる。ポーターなしにはとても自分の部屋にたどり着けそうにないような、曲がりくねった暗い道筋である。
ポーターに10ペソ(26円)渡したら、嬉しそうな笑顔が返ってきた。値段の安いパッケジツアーの割には、エアコン、バストイレ、冷蔵庫付きのきれいな部屋だし、テーブルには飲料水のジャーと生のマンゴ4つと乾燥マンゴのパックが2つ置かれている。エアコンの音がやや大きいことが、ちょっと気になるが、テレビがないのはむしろありがたい。疲れた身体をベッドに横たえると、すぐ近くのテーブルからマンゴの匂いがふんわりと鼻腔をくすぐる。
成田で飛行機を待つ間、私たちのベンチの前に、数人のフィリッピン人がいた。お互いに交代で写真を撮り合っていたが、一通り撮り終わると全員で集まって私にカメラのボタンを押してほしいと頼んだので、少し会話が続いた。女性5人と男性1人のグループだったが、女の子などパーマもかけていないし、どう見ても17,8にしか見えない。しかし実際は24から26才で、昨年12月に観光ビザで常夏のセブの田舎から来日し、このビザが切れるまでの3ヶ月間山形の雪の中で、出稼ぎをしたという。それでも、アメ横で買ったというピンク色の綿の着物や和紙の小さな日本人形などを取り出しては見せ合っていた。さすがに山形の寒さは熱帯の彼らにこたえたようで、もう1度来たいかと聞いても、答えをためらっていた。
そのとき、私がセブではタクシーで名所を回る予定だと言ったら、悪質な運転手が多いから気をつけろという。たまたま女の子の一人の男友達がタクシーの運転手をしているので、連絡してあげようかというので、ホテルの電話番号を教えて、電話してくれるように言っておいた。でも、結局約束の時間になっても、電話はかかってこなかった。そこで、フロントのそばの旅行社のカウンターで、タクシーを手配してもらうように頼んだ。とにかく、周りには何もない隔離されたリゾートなので、その旅行社を利用するしか手はなかった。それに、想像を絶する交通事情の中でレンタカーを自分で運転しても事故を起こして大変なことになるのは目に見えていた。
やがて10分もするとタクシーが現れた。工場を出てから16日しか経っていないというピカピカの三菱製の車であった。運転手のホセ・ラディオン君は既婚の32才で、6才と8ヶ月の二人息子の父親だという。会ったとたんに、Do
you speak English? と聞いたら、自信を持ってYesと言ったのだが、ほとんど名詞を並べるだけの英語だ。でも何とか意志は通じる。こっちも日本人の英語だが、一応気を遣ってcash
dispenserと言わずmachine to withdraw moneyなどと言いかえる。でも、7,8割のコミュニケーションというところか。
ポルトガルの探検家マジェランは500年くらい前に、南米最南端のマジェラン海峡を見つけたあと、太平洋を横断して、フィリッピンのこのセブ島に上陸した。結局はこの小さなマクタン島の酋長であったラプラプに殺されて、彼は世界一周の一番乗りにはなれなかった。スペインの力をバックにして、カトリックを押し付ける強引な西洋人をやっつけた現地人の英雄として、ラプラプの大きな像が、マジェランの最後の地に高くそびえている。ここでは、マジェラン以後数世紀にわたってスペインの支配が続くわけだが、その名前からしてスペイン系を思わせるホセ君も、ラプラプ酋長の像を前にして、彼を誇らしげに説明した。スペインの影響で今も8割を越すカトリック信徒を抱える国だが、ホセ君もスペイン系というより、フィリピン人という気持ちのようだ。
あらかじめ目星を付けておいたスペイン時代の要塞、フォート・ペドロへ連れて行ってくれるように頼む。門前に待ち構えているギター売りのしつこい勧誘を振り切って、古い門に駆け込む。中にある博物館は月曜で休館しているのに、要塞内に入るだけで、同じ入場料30ペソ(80円)とられる。要塞の上は熱帯の原色の花が咲き乱れてきれいだし、港に向かって並べて配置された大砲はかなりの古さだ。あたりには我々以外に誰も見当たらない。するとどこからともなく、軍服にたくさんの勲章をキラキラさせた守衛が現れて、とても親切に我々2人を並べては、渡したデジカメのシャッターを切ってくれる。取るべき場所を心得ていて、つぎつぎと場所を変え、ついに13枚もシャッターボタンを押してくれた。Thank
youだけでは何となく物足りない感じだったので、20ペソ(50円)出してみたら、ニコッとして後ろ向きになってお金を見ないようにして、後ろ手に受け取った。なるほど、こういうことになっているんだ!
フィリッピン最古の教会、サント・ニーニョに向かう。駐車場がないので、運転手にはその辺をぐるぐる回っていてもらう。マジェランが建てたという大きな木製の十字架マジェラン・クロスの後ろにあった。ヨーロッパの教会よりはるかに多くの人が、あたり一面、ひざまずいて一心に祈っているので、カメラは遠慮したい気持ちになる。赤い色をした太く短いロウソクを捧げる場所があり、その燃えカスを溢れんばかりに詰め込んだ大きな入れ物が、印象的だった。特にサント・ニーニョ像に近づいてお祈りする場所では、忍耐強く待つ信者の長い列が出来ていたが、外で待つ運転手のことを考えると早く出るしかなかった。外に出て、小さな子供の物売りを振り払っていたら、その子供は、私の目指す車の方へ先に走っていってドアを開けた。そしてチップがもらえるまでは、取っ手を握った手は離さない。物が売れなくても、1ペソ(3円)のチップを稼ぐ。貧しいことの結果かもしれないが、大人も子供も、親切の押し売りで、文字通り「商売」をしている人が目に付く。
ロスアンジェルスの高級住宅地、ビバリーヒルズと同じ名前を付けた高級住宅地がある。セブ市街や海の向こうに島々を遠望できる高台にあり、そこへ通じる道路には検問所があり、車のトランクを調べたりはしないが、ホセ君も免許証を預けて、車の通過を許してもらい、帰りにそれを受け取る。ここは高い塀と鉄格子に守られた広い敷地に豪壮な邸宅が並ぶ。他の場所と違って、人通りもほとんどない。主としてここで成功をおさめた華僑が住み、Filipino(フィリッピン人)もいるという。こういう人々が政界も牛耳っていて、自分達の利益は絶対に守るから、貧富の差は縮まることはないという。
その高台の一番上に老子の道教寺院がある。中国風の、極彩色の多層のお寺で、一般の中国系の人は百段近い階段を登って別ルートからお参りにくる。バナナの木や、熱帯の鮮やかな花々の中に、尖ったかわら屋根の寺院建築が混在し、おもしろい雰囲気がある。ご本尊も奥の奥にしまってあるというのではなくて、本殿の、参詣人の立つ場所の一方の壁に並んでいるという気軽さなので、ビデオで撮っていたら、近くにいた人に注意されてしまった。よく見ると、中国語で撮影禁止のような漢字の看板があり、その下に小さな英字でNo photographyとあった。でもご本尊はちゃんとビデオにおさまっていた。
我々のタクシーはホテルの旅行社を通して手配してもらったので、最初の3時間が1000ペソ(2600円)、その後1時間増えるごとに250ペソ(650円)という契約であった。結局は7時間あまりで2100ペソ(5500円)位かかった。しかし、鉄道も、大きなバスもないこの国で一般の人の足は、アメリカ軍のジープを改造して使い始めたというジープニー(jeepney)という車。これはjeepとjitney(=安運賃のおんぼろバス)の合成語で、ジープに色を付けて、後ろに昇降ステップをつけただけのもの。車体の側面にルートが大きく書かれていて、どこでも止めてくれる。このステップのところに私設車掌らしいのがぶら下がっていて、客を呼び込んでは乗せ、3〜7ペソくらいをとる。我々が1日タクシーを借りる同じ料金で、ジープニーだったら、1年くらい利用できそうな額である。
トライシクルというのもある。バイクの脇にサイドカーをつけてそこに屋根つきの向かい合ったベンチを付け、後ろにもいすをくくり付けるようにして10人以上乗せることもある。ホセ君もかつてはこれを運転していたと言うので、50ccのバイクで10人も乗せるのは離れ業だといったら、100ccだから大丈夫だと言う。しかしバイクの代わりに自転車を取り付けて人力で動かしているトライシクルもよく見る。子供ばかりだったが、1台の自転車トライシクルに11人乗せて動いているのを見かけた。これも一人3ペソ(8円)だそうで、学生も学校帰りに利用する。だから、高校の門のところなど、帰宅時間になると、トライシクルが一斉に集まってきて大混乱だ。
この交通事情を見ていておもしろいと思うのは、狭い場所に人間が押し込められるのには皆慣れていて、不快に思っているどころか、それを結構楽しんでいるように見えることだ。乗り物には、最初から、身を縮めなければ座れない場所しか作られていないし、そういう場所が作られていればまだましで、荷物も人間も同じ扱いが原則なので、スペースがあればそのどちらでも乗せるのは構わない。交通法規があるのかもしれないが、交通信号もほとんどなく、交通整理は警察の仕事ではない。道路で交通整理をしている人に、ホセ君が挨拶をして、「彼は俺の仲間だ」と言う。道路で笛を吹いていると思ったら、自分のバスに客を呼び込んでいる車掌だった。でも、こんな状態で、全く交通事故に出会うことがなかった。日本で、警察がキャンペーンをやる時期にかぎって交通事故が増える現象を考えるにつけても、権力が余計な手出しをしなくても、普通の人間はうまくやっていくものであることがよく分かる。
次の朝、窓を開けると、まだ7時過ぎたばかりなのに、庭の向こうの方で、15人くらいの兵士の服装をしたフィリッピン人が直立不動で横1列に並び、その前に立つ指揮官の指示を受けているのが見えた。どうもリゾートの警備員が、責任者の訓示を受けていたらしい。やがて彼らはそれぞれの持ち場に散っていった。
リゾートは刑務所のような高い塀と、その上に釘ざしに埋められているガラスの鋭い破片によって、周り中を囲まれている。それでもそれを乗り越えてくる闖入者を見張るために、要所要所に椅子を置き、警備員を配置している。彼らは時には居眠りもするが、1日中椅子に座って塀を眺めていて、我々が通ると、スマイルを見せて(Good)
Morningなどと言う。巡回するのが専門の警備員もいて、彼らはライフルを持ち歩いている。リゾートから客が誘拐される事件があったから、特にホテル専用の海岸の周辺では海から船で乗り付けるかもしれない誘拐団に気を配っているようにも見える。もちろん、先にも書いたように、表門の警備も厳重で、完全に外とは隔離された世界である。南国のリゾートは多少とも隔離された場所だが、普通歩いて外に出て、食事をする場所を探すのは旅行の楽しみでもあるはずだが、ここでは、タクシーでも呼ばなければ、そのようなことは不可能だ。ただでも周りとの交流がない場所なのに、テロ対策でその溝は更に深まった感じである。実際、このマクタン島にあるセブ国際空港は、アメリカ軍の基地でもある。我々の帰りの旅客機が飛び立つ直前に、同じ滑走路を米軍のC130型の巨大輸送機が、多分前線のミンダナオ島に向かって、飛び立った。
しかしここで雇用されている現地人は実によく働く。飛行機の出発が早朝になることもあり、朝4時ころから厨房は動き出しているようだし、7時半ころには、もう掃除や、プールの清掃、植物への散水、落ち葉の掃除などに動き回る黒い人たちの姿がある。ボーっとしている姿はほとんどない。そして自然な笑顔がある。
常緑樹の多い南国では、一面緑に見える樹木も、常に一部の葉が紅葉し、落葉する。しかも大抵は小さなウチワくらいの大きな葉っぱなので、落ち葉が素肌に当たると痛いほどだ。大きな落ち葉がゴロゴロあたりに落ちているのはグロテスクなので、美観を保つために収拾することになるが、これは終わりのない仕事でもある。掃くこともできないので、長い棒の先に次々に大きな葉っぱを突き刺しては集めて歩くのが仕事の人がいる。リゾート専用のビーチでも、海藻を棒で掬い取って海面をきれいにする役目の人もいる。でも安いリゾートのせいか、ビーチの海水は濁っている上に、下は石ころだらけで、とても泳ぐ気にはなれない。ビーチのすぐ近くに作られたプールで泳ぎ、やしの木の下のデッキチェアで海風を浴びながら、日光浴を楽しむことになる。確かに、これを写真で撮ると、真っ青な海と空を背景に、弓なりに伸びたやしの木の下に広がる白砂に置かれたデッキチェアでくつろぐ休暇の風景になるのだが、まわりで現地の人がたえず動き回って働いていて、ライフルを持って巡視する警備員に守られながらくつろぐというのは何か妙な感じがする。
リゾートとはいっても、ホテル直営のレストランが1つだけ。先に書いたように、全く隔離された場所だから、タクシーで30分はかかるセブ島のダウンタウンに出かけるのでなければ、そこで食べるしかない。ところが、このレストランが高くてうまくない。その上、ディナーの時間には、現地の民族音楽のグループなどを呼んできて演奏させ、その料金を自動的に一人600ペソ(1600円)くらい上乗せする。だから、我々は一人6ドル払って、マイクロバスでダウンタウンのアヤラセンターに出かけた。ダウンタウンには何箇所か大きなショッピングセンターがあり、その1つである。三階建てで真中に大きな吹き抜けを作り、デパートを2つくらいくっつけたくらいの大きさのビルの中に、みやげ物、電気器具、衣類などを売る店、各種レストラン、スーパーマーケット、それに今はやりの、インターネットカフェなどが並ぶ。インターネットカフェはパソコン1台30分使用して、45ペソ(120円)くらいだ。試してみたら、このホームページにもすぐつながったが、ADSLではないらしく、全部の写真が出るまで、かなり時間がかかった。ホームページは日本語のページがそのまま日本語で表示されるので便利だが、メイルなどの日本語入力は無理のようだ。
中華料理の店にも入ってみた。野菜と肉の炒めたもの、酢豚、ワンタンスープ、ご飯と飲み物を2人でとってすっかり満腹にしてくれて2人で390ペソ(1000円)だった。ホテルの半額以下なのに、ずっと美味だった。
常夏の国では、家がなくて野外で自然に暮らしていても、凍え死ぬことはない。でも雨を避ける必要があるので、屋根は要る。でも壁は無理に要らないようだ。実際、貧民窟では家の中は丸見えだ。不思議にテレビと冷蔵庫は置いてあるが、その他は簡単な木のテーブルとベンチだけ。そして焼き鳥屋が目立つ。豊富な果物と焼き鳥だけで、エネルギーを補給しているようにさえ見えるのだが、若い人たちの表情には沈んだところがなく、活気に満ちている。平均寿命が日本より20才くらい若いせいか、老人を見かけることが少ない。
高校は義務教育ではないが、鉄筋コンクリート三階建てで、立派な建物だ。国立と書かれたマクタン島の高校では、制服をきちんと着た生徒たちが、毎日午後5時過ぎになって、やっと一斉に校門から出てくる。大学も、工科大学を含めて、この狭いセブ島に、3つくらいあるらしく、教育環境は出来ているように見える一方で、小さな子供が物売りに精を出さなければ暮らせない家庭も多いようだ。この国を一言で表現すれば、極端なコントラストの国ということか。でも、これを融合させて安定的な調和を作るのは大変なことだと思った。(2002.3.12記)
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