ドブロフニク ボスニアからスプリットへ トルギールからシベニックへ ザグレブ スロベニア
バルカン半島の西側、地中海に接する2つの国、スロベニアとクロアチアを訪ねた。2つともユーゴスラビアから独立してまだ十数年。当時、ユーゴの政権を握っていたセルビア人との悲惨な「戦争」が新聞を賑わした。以来日本では「危険な東欧の国々」というイメージが定着し、ほとんどの日本人は見向きもしなかった。しかしヨーロッパ人が旅行を考えるときクロアチアやスロベニアはずっと人気の的だったし今でもそうだ。もともとユーゴスラビアはヨーロッパの多様な文化、宗教、政治の接点に位置していて、カトリック教、ギリシャ正教、イスラム教を個別に信じる8種類の民族を抱える6つの共和政体から成り立っていた。そこでは5種類の言葉が話され、アルファベットまで2種類に分かれているのに何とか1つの国にまとめていたのはチトー大統領の力だった。それがチトーの死によって文字通り空中分解した。中でも、ほとんどがカトリック教徒から成るスロベニアとクロアチアが真っ先に分離「独立」した。
もともとクロアチアの半分は東欧の国というより「地中海の国」というイメージ。イタリア半島東岸からベニスへ続くアドリア海を囲む海岸の延長線上に位置していて、ベニスから海岸沿いの道路を東に200キロも走ればクロアチアの古い港町リエカ(Rijeka)に着く。そこから南へクロアチアの南端の都市ドブロフニクまで海岸沿いを600キロにわたってハイウェイが走る。そして北のイストラ半島や南の沿岸沿いに点在する無数の島を取り囲む海岸を含めると延べ5000キロにも及ぶ風光明媚な海岸線が広がる。
今回のドライブはその海岸線の一部を南端のドブロフニク(Dubrovnik)から北にスプリット(Split)、トルギール(Torgir)、シベニック(Sibenik)と回るコースをとった。
東京からクロアチアへの定期直行便はないので、ウィーンでドブロフニクへのローカル便に乗る。中型の双発プロペラ機。昨年高知空港で前輪が出ないで胴体着陸したのと同じ型のボンバルディア機(DHC8-Q400)だったと知ったのは帰国後しばらくしてからだった。6枚の羽根がゆっくりと回り始める。80くらい座席はあるが、60人くらいしか乗っていない。横4列しかない座席の窓側に座ろうとして何度も頭を上のラックにぶっつけてしまう。トイレも1つだけで、水も出ないので、ウェットティシューが置いてある。座席横の窓は全部主翼の下についていて、主翼から出た足の下には車輪が見える。離陸したと思ったら2~3秒のうちに車輪がスルスルと格納されて消えた。視界ゼロの雲の中をずっと進むので、プロペラ機だから高度が低いのかと思っていたら、やがて雲の上へ。大型ジェット機と同じ程度にしか揺れない。雲の切れ間から下の民家の茶色い屋根がきれい。1時間もたったころ海の中に緑の島が点在する場所を通過したかと思ったら、又車輪が目の前で降りて、ドブロフニク空港に着いていた。
早速空港のレンタカー・カウンターへ。フォードの赤いFiestaを用意してくれた。新車だがまる3日借りて保険料込みで60ユーロ(9,600円)。日本から持ち込んだカーナビ(GPS)を試してみる。アメリカのアマゾン・ドット・コムから取り寄せたもの。車外に出して試すとすぐに衛星を捕まえ、車内にセットすると目的地へガイドしてくれる。それを頼りに15キロ離れたドブロフニクの中心部へ向かう。慣れない土地だと、初めて運転席に座ってまずどちらの方角へ踏み出すか迷うことが多いが、カーナビはありがたい。白い岩盤で覆われた山が青い海に沈みこんでいく斜面の途中に作られた道路をゆっくりと進む。アドリア海の向こうに沈みかかっている夕日がちょっとまぶしい。やがて車はドブロフニクの市街に入る。海に面した急斜面には石造りの箱のような小さな家がひしめいている。道が狭くなるが、ナビの指示に従って急な上り坂を進む。ナビが “You have
arrived at your destination.”と言うので、目的の宿はこの近くに違いない。降りて探すことにする。車は入れない細い道をしばらくウロウロしていると、向こうの方でこちらに手を振っている若いクロアチア女性がいる。変だと思ったが話していると今晩の民宿(Sobe)の大家さんではないか。日本からインターネットで申し込んだ相手Goldi Nodiloさんだ。多少メイルのやり取りはあったが、民宿の経営者だし、ゴツゴツした名前から若い女性だとは判断できず、私の先入観でかってに男性の老人だと思っていたのであまりの違いに面食らってしまった。
とりあえず彼女が確保しておいてくれた場所に駐車して、狭い石の階段を降りて、案内された部屋はあまり広くはなかったが、窓を開けると海の向こうに城壁で囲まれた旧市街を望むことが出来る。新築で一応シャワーやトイレもついていて、メイルで頼んだ駐車スペースも確保しておいてくれたので問題はなかった。ただ彼女はそこに住んでいるのではなくて、別の仕事をしている主人と近くに住んでいるという。観光の中心、旧市街への行き方、うまいレストランなどを説明したあと、携帯の番号を教えて必要ならそこへ電話してくれと言う。宿代75ユーロもその場で受け取り、明日チェックアウトのときにカギを入口の郵便受けに入れてくれといって消えた。なるほどこういうシステムだから我々が来るのを外で待ち受けていたのだとやっと納得がいった。息子も私も気が付かなかったが、彼女の方は日本人の我々が車で来るのに気が付いていて手を振っていたらしい。しかし我々は若い女性が待っているなどとは思ってもいないので、すぐ近くを通り過ぎたのだった。でも英語はきれいで分かりよく、外国人を相手にやや良質の宿を貸していることはすぐに分かる。これがこの辺りで「ソベ」(Sobe)と呼ばれる民宿のやり方なのだ。
早速外に出てみる。先ほどまで輝いていた夕日がいつの間にか薄明かりになり、ひんやりとした海風が顔に当る。旧市街は半島のように海に突き出した小さな一画で、周囲を背の高い城壁に囲まれている。背後の山は貴重な岩塩が豊富、貿易港として地中海の中心に位置する風光明媚な港は、周辺の民族からの侵略にさらされた。宿敵ベニスやトルコ人の襲来、それに1991年のセルビア人との戦いなどでこの城壁は文字通りドブロフニクの盾となってその役割を果たしてきた。東西の先端は司令塔のようにそびえ、分厚い石造りの砲台も備わっていて、半島全体が巨大な軍艦のようだ。その海に浮かぶ「軍艦」の中の狭い空間に、石を積み上げて作った民家が上に伸びる。その密集した石室の間には石畳の小道が迷路のように走る。そして細い路地の2階、3階の窓から窓へ、長いロープに取り付けられた万国旗のような洗濯物がはためく。路地から脇の四方を取り巻く壁まで石を積み重ねて造られた幾何学的な空間の圧迫感の中で、赤や黄色のシーツやタオルの行列に出会うと何となくホッとする。屋根は例外なく、赤茶けた半円筒形の瓦をきれいに並べてある。迷路をうまく抜け切ると、この一画の中央を貫く大通り(Stradun)に出る。ここはかつて海峡だったところを埋めて作った通りだそうで、ドブロフニクがベニスと同じような力を持つ都市国家でRegusa共和国と呼ばれていた中世の頃は小さな島だったことが分かる。しかしベニスと違って、ここには貿易で利益をあげたことを誇示するような個性的な建物はあまりない。大通りにもむしろ特徴のない小さな商社のような建物が並んでいるのは18年前の「独立戦争」時の破壊を何とか急に修復したためだろうか。
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