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フィリッピンを旅して

道 彦

 

今回の東南アジア出張はシンガポール、バンコック、マニラ合計1週間であった。シンガポールとバンコックは以前に観光や仕事で出かけた事もあるのであらためて驚く事はあまりなかったが、フィリピンは何しろ初めてであった。出かける前に、フィリピン駐在の営業所の所長から「マニラは安全上色々と問題があるので、空港に着いたら絶対にタクシーに乗らないようにして下さい。」というメールをもらっていたのでそれなりの心構えはできていたが、いざ空港に降り立つと目の前を通るタクシーの運ちゃんの一人一人が強盗か、凶悪犯人のように見えてくるから不思議なものだ。

ホテルのリムジンを頼んで乗り込むと、空港からマニラの中心街まで色々な町並みを通っていくのだが、大体どこの国に行ってもこの過程でその国の生活のレベルや、国の先進性、後進性がどの程度であるのか、おおよそ見当がつく。マニラも中心街は確かに他の大都市のようにきれいに整っているが、一歩路地を入るとバラックのようにみすぼらしく今にも倒れそうな平屋建ての商店街が軒を連ねていたり、「ジープニー」と呼ばれる小型バス(昔の小型トラックのような車体の後ろが乗降口になっている20人乗り位の乗り物)(写真)が鈴な りの乗客を積んで、排気ガスを撒き散らしながら猛スピードで走っていく。インドほどではないが、東南アジアの中ではまだまだ「開発途上国」である事を実感する。

なぜタクシーが危ないのか? 危ないのはタクシーだけではなくて日本人は金を持っていると思われているから、昼間でさえ町を一人で歩いているとたちまち大勢の「悪者」に取り囲まれて「金を出せ!」とやられてしまう。金だけで済めばまだ良いので、次の日に川に死体が浮いていた、なんてことにもなり兼ねない。夜などは論外で、一人歩きでなくても危ない。以前某商社の駐在支店長が誘拐されて多額の身の代金を取られた事が新聞で報道されたが、支店長ともなると会社が身の代金を払ってくれるので、彼らにとっては絶好の「獲物」になる。話をしてくれた営業所長も、毎日お抱えの運転手付きの車で出退勤しているが、時間とルートは毎日変えるように心がけていると話していた。

道路の面積の割に車の数が多いのか、道路そのものが少ないからなのか良く判らないが、マニラの中心街であるマカティ市は、町中常時交通が渋滞しているといってもいい。晴れていればまだ良いのだが、雨が降るとてきめんに大渋滞が発生する。高速道路があまりできていないのと、地下鉄などの交通機関が整備されていない事もあるが、一番の原因は下水道ができていないためだとその営業所長が話していた。下水道といってもいわゆる屎尿や生活雑排水を流すための下水ではなく、雨水を処理する道路の側溝すらないのである。従って南国特有の集中豪雨などが降ると、道路はたちまち川になり低い部分に水が溜まって車が走れなくなってしまう。

彼の話では、ある時夕方に相当ひどい雨が降った事があり、交通渋滞が予測されたので普段は夕方6時までの勤務時間を1時間早く繰り上げて、その日はみんな5時に退社してよい事にした。ところが渋滞は予想外にひどく、普段ならそれでも1時間半から2時間位で自宅までたどり着く日本人のスタッフの一人は、家についたのが9時 になったと言うのである。9時なら5時から4時間だから、まあそのくらいにはなるのだろうなと思って聞いているとそれが何と夜の9時ではなくて翌日の朝の9時だったというのだから恐ろしい。外に一歩出ると上記のような危険な場所だとすると、歩いて帰る訳にもいかず、一晩中狭い車の中でお手洗いはどうしていたのだろうと余計な事まで心配になる。

営業はお客さんとあう時には時間を守る事は日本でもどこでも鉄則であるが、フィリピン時間といって、30分までは遅刻と見做さない事になっているそうだ。それでも同じ道路でも日によって、時間によって渋滞の程度がひどく違うので、客先への到着時間の予測をつけるのが非常に難しいと嘆いていた。同じ市内でありながら、客との仕事のアポイントは午前中1件、午後1件が良い所で、半日で2件をこなそうとするとかなりしんどい事になる。

マニラの近郊に我々の土浦工場の分工場があって150人位が働いている。この分工場は3年前から稼動しており、半年前からこの分工場長をやっている男は日立入社以来私と一緒に同じ設計部で仕事をして来た仲間であるが、彼は子供が大きい事もあって今単身赴任をしている。ベッドルームが4つ位ある立派な家でメイド付き。メイドは首都マニラのあるルソン島からはるか遠い小さな島から出稼ぎに来ている高校卒業程度の娘で、住み込みで彼の食事作りから掃除、洗濯まで一切の家事をしている。日曜日の昼飯と晩飯だけは作らなくても良い事になっているそうだが、夏休みがある訳でもなし、旅費がかかるから殆ど 自分の家にも帰らない。それで1ヶ月の給料が日本円で約1万円である。

お抱えの運転手の方は、これよりも給料は良くて2万円から25千円位だそうであるが、こちらの方も結構大変である。たとえば私のような客が日本から来ると、朝ホテルまで迎えにくる訳だが、遅刻でもしよう物ならすぐ首になってしまうので、先ほどのひどい渋滞を考慮に入れてホテル8時のピックアップでも朝4時半頃には運転手用の宿舎を出てくる。一日 中主人の動きにあわせて行動する事になるので、運転手の方も殆ど自由時間がない。土曜日も日曜日も主人は外出するので、基本的には休みがとれない。我々が仕事で訪問すれば、どこかのレストランで夕食の接待を受ける事になるが、主人と我々とをレストランまで送り届けると、我々が食事をしている間もずっと外で待っている。いつ主人が出てくるか判らないから、遠くで油を売っている訳にはいかない。夕食のデイナーであれば少なくとも2時間以上かかるが、いつ出てくるか判らない主人のために交通事情の悪いところであれば、止める所がなくそのあたりをぐるぐる廻って食事が終るのを待っているという事もあるようだ。

こういう話を聞くと自分が、黒人奴隷を搾取していた19世紀のアメリカ人になったようななんとも釈然としない気持ちになるのだが、現地で生活している日本人は慣れてしまっているのか、それほどには罪悪感を持っていない。むしろ1ヶ月1万円で働くメイドはその生活に十分満足していると言うのだ。彼女は自分の生まれたへんぴな島ではロクな仕事にありつけない。それに比べると自分の家ではないけれど、大きな家で雨露をしのいで暮らす事ができ、三食心配なく食べる事ができて(食費は当然給料のカウント外)金は一銭もかからない。給料はそっくり田舎の貧乏な両親に仕送りができると言うのである。

運転手にしても2万円から25千円の給料というのは、たとえばその分工場で働く一般の労働者が月給1万円から高くても2万円であるのに比較するとむしろ“高給取り”であるからそれだけの苦労に値する給料を得ているというのである。「気の毒だ」と思って「甘やかして」いるとだんだん図に乗って、働かなくなるから決して甘い顔を見せてはいけないと言 うのである。「彼らは我々がレストランで食事をしている間、晩飯はどうしているの?」と聞いたら、「適当にそこらで食ってる筈だよ」という事であった。全般に物価の安い国ではあるが、我々が接待されるようなレストランではそれでも結構値段が張る。へたをすると一人1回の飲食代がメイドの月給の半分以上になってしまう事もあるし、泊まっているホテルの一泊の料金はメイドの1ヶ月の給料よりも高い。

営業所の所長がつれていってくれたスペイン料理の店(写真)はなかなか洒落た店でバンドもついて希望の曲を演奏してくれる。ワインも良い物が揃えてあり、ここだけ見れば先進国の大都会にあるレストランに引けをとらない。ところが入り口にすごいガードマンが腰に拳銃を下げて現地の「貧乏な人」が入ってこれないように頑張っている。「外の世界」と「内の世界」の違いが際立っている。ホテルだって同じで、迎えに来たお抱え運転手ですらなかなかロビーに入れてもらえない有り様であった。

フィリピンの人々は皆が皆貧乏である訳ではない。むしろ豊かな階層は日本人よりもはるかに金持ちの人も少なくない。彼らは大きな土地を所有しており、大きなビルをもっており、事業に金をつぎ込んでは大金儲けをしている。かつてマルコス大統領が失脚した後、民衆の人気が高かったと言われるアキノ大統領にしても、実家は広大な土地を所有する大金持であった。今回の出張では我々の機械を売り込む先として、このような財閥系の客に会うチャンスもあったが、これらの一部の金持ちは一般の貧乏な民衆を囲いの外に追い出して、優雅な生活を楽しんでいるのである。このような貧富の差は、開発途上国ほど大きいと感じる。インドもそうである。

今回の出張では、まずシンガポールに行き、ついでバンコック、そして最後がマニラであった。シンガポールは3回目の訪問であるが、いつものように町並みは美しくホテルから見る高層ビル群(写真)はニューヨークよりもきれいであるかもしれない。高層ビルの営業所の窓から見る海には沢山の漁船や、外洋には大きな貨物船が停泊していて(写真)すばらしい。街にはごみ一つ落ちておらず、車から空缶をポイポイ捨てる日本の街の汚さが情けなくなる。(本当の所は、ごみを捨てたりツバを吐いたりするとすごい罰金を取られるだけではなく、公衆の面前で「私はごみを捨てました」とか書いたゼッケンを身につけて汚した所を掃除させられるという「実刑」が待っているからきれいなのだという人もいるが) 何 といっても東南アジアの中でシンガポールは最も美しい街の一つである事は疑いない。

バンコックはマニラほどではないが、やはり汚い所は沢山あっても、古い歴史と伝統のある王国であり、ここでも交通事情は悪いが何しろ安全である。

東南アジアのパックツアーと言えば、台湾、香港、シンガポール、マレーシア、タイが主流であって、フィリピン旅行というのはあまり聞かない。沢山の島々があるが、水泳や、ダイビングを除けばこれと言うほどの観光資源も観光地もないからである。それに加えて冒頭に述べた安全の問題もあるし、交通渋滞の問題もある。元々はスペインの植民地(国名のフィリピンはスペインのフィリップII世から来ている)であったし、その後はアメリカの実質的な支配下にあった。長い間大国の支配下にあって人々の暮らしのレベルはあまり良くなっていない気の毒な国なのである。

これまでに主に仕事で20ヶ国ほどを訪問する機会があった。ヨーロッパの先進国やアメリカに行くと、日本はまだまだ後進国だと言う強い思いにかられるし、開発途上国に行くと日本はまだましだと思う。開発途上国であってもいわゆる観光旅行で行くと、どうしてもその国のきれいな部分を見て歩く旅になってしまうので、生活の臭いにあふれた裏町の様子が判らない。あるいは観光ガイドからはそういう話を聞く機会が少ないので実状が判らない。今回の旅行は図らずも東南アジアの片隅にあるフィリピンの実状を少しでも垣間見る事のできた私にとっては久しぶりの貴重な体験になったと思っている。平成11年10月24日

写仏8年93枚!

 9月24日田無・(祖)母の90枚目の写仏を納めに、甲府市八代にある定林寺というお寺を訪れた。祖母が約8年にわたって写仏を送りつづけたそのお寺に行ったことがなかったので、90枚目を機会に1度行ってみようということになった。
 定林寺は中央自動車道の石和の出口から10分くらい乗って、八代町役場の前の道を入ったところだか、大きな池を中心にした庭の向こうには5重の塔がそびえ、町中に近いのに別世界であった。その5重の塔の3階に上の写真のような棚が4方にあり、それに一人一人横に並べて置かれていた。同じ人が送ると上に積み上げられるようになっていて、他の人のところは1通か2通、多くて6通位だったのに、(祖)母のは89通と群を抜いてそびえ立ち、上の棚の下に頭が届きそうであった。住職に言わせると、一応100通来てもいいように作ったけど、100通送る人はいないだろうと考えていたそうだ。しかし11月半ば現在93通であと1年のうちには100通になりそうなので、その時はお祝いをしましょう--ということになった。
 今から9年位前に(祖)母が知人のSさんと芝の増上寺で行われていた写仏会に参加していたのがきっかけで、そのSさんに定林寺を教えられて送り始めたのが始まりのようだ。しかし(祖)母はそれ以前に自分の家のお墓がある高野山の金剛峰寺に写経を300通ほど送っていた前歴があり、今度の100枚などは別に大したことではないという感じであった。

北京西安銀婚の旅

照子

  早いもので今年921日で銀婚式を迎えた。記念に中国へ旅行することにした。幸夫さんは仕事で何十回と行っているが私は初めてである。10/3011/3まで四泊五日北京・西安各二泊づつの旅である。旅から戻り数日たった今も不思議な感動に包まれている。何故であろうか?それは中国五干年の歴史の遺跡に身を置き、悠久の人類の流れを肌で感じてきた余韻らしい。それは具体的に「天壇公園」であり「天安門」であり「故宮」であり「兵馬傭」の夥しい数の兵傭であり秦の始皇帝の死生観であり「始皇帝の陵墓」であり「華清池」の揚貴妃の大理石のお風呂であり「明の十三陵」であり「万里の 長城」の雄大さである。どこに行っても歴史で習った人が出てきてそれを実感できた感動らしい。

  西安では「あの時代に遣唐便、空海、安部伸麻呂、吉備真備、などがよくここまでやってこれたものだなあ」と思い、市を取り巻く城壁の「西門」が芥川龍之介の「羅生門」の舞台だったと聞かされ、あわてて情景を思い出したりした。今はその門の下がおみやげ物屋になっている。西安は「トキ」の故郷でもある。北京の南西、陝西省に位置する。ここから佐渡にトキが贈られたと聞き更に親近感を覚えた。西安から北京まで飛行機で約一時間半だが、「中国晴れ」(?)に恵まれ窓から「奏嶺山脈」「黄河」「万里の長城」がハッキリ見え、飛行機好きの私にはこれ又感動のひとときだつた。そして、北京空港に到着したとき、11/2だったのだが、10/30に成田から着いたときと打って変わってきれいなピカピカの空港に到着したのでびっくりした。後で聞くと、11/1に オープンし、今日が二日目だという。私は初めての中国旅行で新旧両空港をいっぺんに体験するという珍しい機会に遭遇することになった。(ちなみに、駐車場の広さは世界一とか。運転手さんも不慣れでまごついていた。)

  新旧と言えば中国は本当に新旧入り交じった状態であった。素晴らしい近代的なビル、広い高速道路、テレビの主持人(キヤスター)の様子などは、日本と全く変わらず、一方、町中でも所々に戦後の日本のような古い建物があったり、みすぼらしい格好の人々もいた。ガイドさんによると矢業率は3.8%ということだ。

  今回の旅が素晴らしかったのは旅行形態のおかげもその一つだろう。ツアーで申し込んだのだが、二人だけに中国人ガイドとベンツの運転手さんがつき、ずっとお世話してくれた。だから現地の人とずっと話をしながら回り、ふれあいも充分楽しむことができたのも一因だろう。北京のガイドの孫蘭蘭さんは22才の女性で彼女の同居している祖母は96才で「てん足」と聞きびっくりした。だが元気でふつうに何でもできるそうだ。西安のガイドさんは許栄さんといい25才の女性、10月に結婚したばかりだそうだがとても勉強家で歴史には特に詳しく色々な説明を明るく楽しくしてくれてそれも今回の旅の楽しさの大きな部分を占めたといえよう。本当は「敦煌」が専 門らしく帰り際には「是非次回には敦煌にいきましょう」とプロ意識も忘れていなかった。本場の中華料理もどれもおいしく良いガイドさんと運転手さんにめぐり会えた恵まれた旅だった。但し、ホテルに放り込まれた後は、すべて中国語で対応する羽目になるので、全く話せない人たちにとっては、不安やら不便もあるに違いない。その点幸夫さんが大いに活躍してくれた旅であった。

SNAPSHOTS:-

●9/25に毅君の妻さおりさんの妹、若林鈴香さんの結婚式が神田一橋で行われた折り、大阪や岡山から参加された若林さん一族が田無に宿泊され、一同で柴又帝釈天と矢切りの渡しを訪ねた。
 さおりさんの母さか江さんが突然、感極まって「矢切りの渡し」の船の中で美声を披露。乗り合わせた一同の喝采を浴びる。本人は照れくさそうにハンカチを頭に。

●筑波の「大津彩花」ちゃんは満1才の誕生が過ぎてから変化が著しく、目下よちよち歩きで犬を攻撃できるまでになった。この世に出てきたのを喜んでいるのか、散歩のときもすれ違う人みんなにヤアーヤアー大声で呼びかけては周りを驚かせている。










●11/13〜14に名古屋の三好が丘に住む毅君とさおりさん夫婦が東京の両親を招いた。
 名古屋から地下鉄経由で名鉄に乗ること40分、トヨタ自動車の町豊田市に隣接する新興住宅地で目下開発中といった感じ。翌日は東山動植物公園を案内。動物園が中心なのだと思われる場所にもかかわらず、バラ園をはじめ万葉植物園、コスモス園など年輩者に対するサービスも忘れない大自然の中を一緒に散策し浩然の気を養う機会と新婚の清々しさを頂戴した。

FlinnさんのShakespeareを Webページへ

 2年以上前のこのホームページ97-5-11号でもフリンさんについては紹介しましたが、彼の遺言で私が譲り受けた彼の著作のEasy Plays from Shakespeareのホームページを作って10冊の英語劇の脚本を公開しました。全10巻の総ページ数は650ページにもなりますが、400年以上前の英語から彼が高校生でも分かる現代の平易な気の利いた対話の英語劇にしてくれました。興味のある方は http://www.aizawa.2y.net/sp/ をクリックしてください。人生のあらゆる悲喜劇が文字通りドラマティックで皮肉な展開を見せてくれます。

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