3月も後半なのに寒い。桜は咲いているが、曇っていて突然雨が来る。車に戻り、海岸沿いの国道を進む。ゴツゴツした白い岩肌の山が海岸線に向かって傾斜している。上半分が禿げた男の頭のように、下の方には短い木々が生えている。が、白い山肌も透けて見える部分も多い。いつの間にか空は真っ青に変わり、所々に波の筋が横に走る。沖には霞の向こうに大きな島が望まれ、典型的なアドリア海が、眼下に広がる。車を止めて、下に見える砂浜の海岸に降りてみる。上からは白い砂のように見えた浜辺は、近づいてみると全部小石であることが分かる。打ち寄せる透明な水、ゴミ一つ浮いていない。きれいな水の下にはやはりベージュの小石が敷き詰められているようだ。この海岸も背後に迫る山から続く一部なのだ。旧市街の石畳の道、四角に切った石を10メートル以上も積み上げた城壁、民家の壁、この国の建造物の基は全てこの石に結びつく。
どこまでも続く見事な海岸線を北に進むと、やがて関所が現れた。このクロアチアの海岸の途中で9kmだけ内陸の国、ボスニア・ヘルツェゴビナの領土が海岸線にせり出してきている。そのひものように細い隣国の一部を横切るためにはこの国境検問所を通過する必要がある。車が近づくと銃を抱えた警備官が近づいてきた。カメラを向けるとダメだというジェスチャー。パスポートの写真を見ながら本人と見比べている。やがて「行け」と合図する。この旅でほんの数分のボスニア・ドライブだ。と思ったら、景色のいい展望台に出たので、ストップ。幹線沿いの休憩所なのに人影がほとんどない。陽はすっかりあがり、暑いくらい照りつける。眼下に赤い屋根がきれいに続き、その向こうに広がるアドリア海。その海には無数の小さな島が重なり合っている。近くにみやげ物屋があるので、何となく入ってみる。値段を見るとすべてのものが異常に安い。クロアチアではkunaという単位を使いknと略す。1 kuna=20円くらいなので、ユーロに換算する時は普通1 Euro=8 knで計算される。ところが、ボスニアではドイツマルクと等価のKonvertibilna Marka(兌換マルク)という単位のお金を使い、kmと略す。1 Euro=2 kmなので、ボスニアのkmはクロアチアのknの4倍の価値がある。このことを知らず、正札のkmをknと見間違えて、安いと思ってしまったのだ。うかつにもこのことが分かったのは安いはずのお土産を買って、意外に高い金額を要求されたからだった。英語の旅行案内書にもボスニアのホテルは安いと書かれていて、先入観が邪魔をした。
再びボスニア・ヘルツェゴビナの国境を越えてクロアチアに入る。今度は検問もなくフリーパス。検問の厳しさで国情が分かるようだ。ガソリンが不足してきたので、ハイウェイを降りて近くの小さな村に入ってみる。ガソリンはかなり高く、1リットル180円くらい。寂れた村はずれに家族経営の小さな店が1軒あった。天気は良いし、ピクニックには最適なので、外で食べられるようなものを探す。パン、ハム、果物、ジャム、缶詰それに野菜など2人分買っても、740円程度だった。片田舎なので多分英語が通じないと思って、ハムなどを切ってもらうのにジェスチャーで苦労していたら、英語が通じることが急に分かり、“Oh, you understand English!”ということでお互いに大笑いになった。
再びハイウェイに戻り、Splitの方へ向かう。道は内陸の方に入り、海が見えなくなった。白と黄色の混じった荒れた土地が広がる。大きな木が根を張ることは出来ないようだ。1メートルくらいの潅木が生気のない細い葉を付けて何とか地面のあちこちに張り付いている。ごつごつとした岩肌を露出させているところも目立つ。突然、ハイウェイが工事で、道路が全部閉鎖されている。前を進んでいた車はUターンして戻っていく。これまでどこにも「この先道路閉鎖」などという看板はなかったのでびっくり。やむを得ず我々もUターンしてナビで別のルートを探す。ほどなく無舗装で狭いガタガタ道へ入り込んだ。前方からは大きなダンプトラック。やっとの思いですれ違う。「ヤレヤレこんな道で300キロも行くんじゃ大変だぞ。まるでダカール・ラリーだな」などと言いながら進んでいたら、とりあえず、広々とした舗装道へ出た。海は見えないが、少し高台で見渡す限り荒野が広がり、そよ風が気持ちいい。「ここで昼飯にしよう」ということになった。道路わきの草で囲まれたスペースに腰掛になりそうな石がある。先ほど田舎のスーパーで買った食料を広げる。時たまエンジンの音が近づいてはビューンと消えていく。静かだ。太陽は暑い。缶詰に残った汁を捨てると乾いた肌色の地面はスポンジのように吸い込む。さて身体のエネルギー源も満タン。再びスプリットを目指してカーブの多い海岸線を北上。慣れない右側通行の上、カーブでは対向車が中心線をはみ出してくるので要注意。でもカーナビのおかげで距離や方向、それに所要時間までが手にとるように分かり、不安がないのがいい。海のすぐ脇を走る道の山側斜面には茶色の屋根と白壁の家が並び始めたと思ったら、急に車が混み始めた。スプリットは近い。
しばらく市内を走り回って様子をつかんで、ホテル探しを始める。ローマ時代のディオクレティアヌス皇帝が退位後の隠居城が旧市街の中心にある。その近くをうろうろしていたら、地元の小さな観光案内所が目に付いた。カウンターにいた年配の老人が「はるばる日本から来てくれたのか?」と感動して大きな声をあげた。近くに車も駐車できる1部屋90ユーロのソベ(民宿)があるがどうかという。一応部屋を見に行くことにする。街中だが便利なところ。文字通り新築で、まだ玄関のところは壁の隅の工事が続いているが、部屋は申し分ない。インターネットもタダで使えるのでタダのスカイプ電話もできる。すぐ近くの公共駐車場はタダだが、ほとんど満杯。でも偶然目の前で1台が出てくれて、そのあとに滑り込んだ。 紀元284年から20年間広大なローマ帝国を治めていたディオクレティアヌス帝(Diocletian)が選んだ引退の地スプリット(Split)は風向明媚なアドリア海の中心都市で、1700年前の古城は世界遺産で旧市街の中心にある。 海岸沿いの洞窟の入り口のような地下通路から入る。表面の漆喰が剥がれ落ちて赤いレンガがむき出しになった巨大な地下道。カビで黒っぽくなったレンガは角がとれても何とか積み重なっている。天井は水気が染み出すのか、真っ黒のカビがクモが手足を伸ばしたように広がる。レンガを積み上げた太い柱がの列から伸びた美しい梁が天井に弧を描く。その下の薄暗い柱の陰で、裸電球を灯したキオスクが並ぶ。この「トンネル」は非常時の皇帝の逃走路として設計されたらしい。実際、皇帝は引退後も、考えを異にする大司教や数千の反抗的なキリスト教徒を殺害したので、不人気だったせいか町中に彼の銅像などは見当たらない。一方、10世紀にヴァチカンを説得して、ラテン語ではなくクロアチア語での祈りを認めさせたニン・グレゴリー大司教の巨大な銅像が北口の脇にそそり立つ。
|
次の日ここSplitから北20キロにある、やはり世界遺産の小さな町Trogir(トロギール)へ向かう。突然猛烈な雨。ワイパーを最速にしても前がよく見えない。こんな乾燥した地方にもこんな滝のような雨が降るのは温暖化の影響か。それでもTrogirに着くころには小雨になっていた。 Trogirは小さな島で本土とは東側にある橋でつながっている。西の端には大きな城のKamerlengo要塞があり、それに守られるようにサッカー場がある。島の真ん中の部分が旧市街。中世の石造りの建物がギッシリと詰まって建てられ、その間を狭い迷路のような石畳の小道が縦横に走る。小さな島だが回り中に大きな船が接岸できるようになっていて中世には貿易で栄えた様子が分かる。貨物船ばかりでなく、巨大な木製の帆船まで城の近くに着岸しているのは世界遺産に一味添える。 しかし橋を渡り本土に入ると何の変哲もない普通の住宅地で、普通の庶民の生活がある。町角の公園には大樹の陰に石造りの台が並べられ、大きなパラソルを立てて取れたての野菜が無造作に並べられている。青菜や果物は多いが大根や人参の類はほとんど見当たらない。土地がやせていて地中にもぐりこむ野菜が育ちにくいのだろうか。雨の中を人々は傘をさして足場の悪い「公園市場」で買い物をする。1本道を隔てた反対側には大きなスーパーがあるのに、結構にぎわっている。 この公園の向こうに小さな学校がある。その側を通っていると鐘が鳴り一斉に生徒が飛び出してきた。午前10時なので休憩時間かなと思っていたら、生徒たちは近くの屋台のような店で次々にパンを買って、あたりに円陣を作りかじりつき始めた。近くの男の子の一団が我々に気づいて日本語で「コンニチワ!」と笑顔を見せる。思わず「コンニチワ」と返し、カメラでワンショット。このあたりも日本人観光客の波が押し寄せていることが分かる。しかしSplitなどの「大都市」と違った親しみやすさがある。 Trogirからさらに北の山を越えて降りると海岸沿いにSibenikという田舎町がある。ここには石だけを積み上げて造ったという巨大な寺院(Cathedral of St. Jacob)がありユネスコの世界遺産に指定された13世紀の建造物。一見優雅で丸みがあり、とても石だけで出来ているとは思えない。大理石を積み上げたかと思える優雅さ。周りには小さな人間の頭の像が71個も飛び出している。当時の庶民のさまざまの表情を描いたものだという。17年前のクロアチア独立戦争で一部が破壊された。たまたま日本人の団体が寺院の中に入りかけていたので、一緒に便乗して薄暗い堂内を見学。変な「同行者」をいぶかった日本人が話しかけてきたので、「クロアチアをドライブ中に立ち寄った」といったらびっくりした表情。それでも「いいですねぇ」という言葉が返ってくる。 ここもこの旧市街を離れると普通の庶民の生活がある。大寺院のすぐ前の石造りのアパートも緑色の窓枠が埋め込まれ優雅だが、例によって窓から窓へ洗濯物が派手につるされていて、生活感があふれる。このアパートのすぐ裏には壁が総ガラス張りの超近代的な建物があり、近代化の波が古い文化を飲み込もうとしている流れが感じられる。一方さらに進むとスラムもあり、ちょっとした空き地では小さなテントを張り巡らした市場が賑わう。英語は全く通じない場所だが、筆談で大きなヤギの毛皮が2000円というので記念に買っていく。お釣りがないようだが、隣の屋台の人から融通してもらって渡してくれた。下町の雰囲気。 Sibenikの近くから高速道路に乗る。4車線の見事な道路が500キロ先の首都ザグレブまで続く。交通量も少ない。途中見晴らしのいい休憩所で昼食。先ほどスーパーで買ってきたパン、ハム、ジャム、ジュース、野菜、果物などを取り出して、芝生の中のテーブルのあるところでピクニック。そよ風が気持ちいい。さて満腹ということでトイレを探すが、日本の休憩所でよく見かける看板がない。ひとけもない。少し離れたところにレストランらしい大きな建物。周りを歩いてみるがそれらしい入り口がない。仕方がないのでレストランに入り、通り抜けてトイレらしいところに入る。そこにも看板などはないが確かにトイレ。反対側にも出口らしいのがあるので出てみる。外の駐車場の脇に出た。しかし看板もないし、外からは入り口も見えない。トイレが分かりにくいのはここだけではなかった。博物館、美術館なども展示場の一番奥の、何の変哲もない木製のドアがトイレの入り口ということが多い。もちろん表示もないので、案内人に聞いて教えてもらう以外にはたどり着けない。 再び快適なハイウェイ。内陸に入り、美しい海は消えたが、大きく波打つ山々が広がる。うす曇だが快適なドライブ。突然長いトンネル。出口の先は別世界だった。見渡す限り雪が真っ白に覆い、フロントガラスには吹雪が吹き付ける。車があまり通らないので、道路上もシャーベット状の雪がたまり、運転を妨げる。しばらく走ると前を行くバンに追いついた。視界が極めて悪いのでお互いにノロノロ。前に行く車があるので、道の方角が分かる。車が全く通らない追い越し車線の上は雪が凍りついているのが分かる。スリップが怖い。高速に入る前にガソリンを入れておいて良かった。ガソリン・スタンドなど全くない山の中。どこまでこんな状態が続くのだろう。やがて今夜とまる予定だったプリトビツチェ国立公園の方向への分岐点の表示が見える。国立公園に向かうには高速を降りて一般道路を山の方角に数十キロ行くことになる。分岐地点の料金所で他の地域の天候を尋ねてみる。山岳地帯全域で大雪なので、山奥の国立公園へ向かうのは大変だろうという。ホテルを予約していたわけでもないので、このまま高速でザグレブへ直行することに変更。3月下旬だというのに不思議な寒冷現象だ。 雪国走行はこのあともしばらく続いた。山の中はカーブが多く、ここでエンジンが止まったら…などと考えると落ち着かないが、山岳地方を抜けかかるに連れて天候も少しずつ回復してきた。ザグレブに近くなったら青空も見え始め、広い大平原の向こうの空に浮かぶ雲は夕日が反射してピンクに輝いている。やがてザグレブの料金所が現れる。アドリア海に面したSibenikから山岳地帯を経由して5時間くらいは走ったかな。日本なら東京、名古屋間というところか。料金は16ユーロ(2,640円)だった。 |