プラハ ポーランドへ アウシュビッツ ブダペスト チェスキー・クロムロフ 南ボヘミア 共産主義の名残?
ほんの十数年前までは「鉄のカーテン」の向こうの暗黒の世界であったチェコ、ポーランド、ハンガリー。東欧と聞くと、頭巾つきの黒い外套をまとった人々が群がる配給所の前の行列、赤旗にうずまる労働者の集会、繰り返される圧制と革命の歴史、そんなことをすぐに思い浮かべてしまう。でも今の東欧は違う。プラハ、ブダペストなどは世界中の観光客であふれかえる。仕事以外ではとても親切な人々がいる。大都市を除いてはびっくりするほど安い物価、洗練された味の素朴な郷土料理、地平線まで広がる緑の大平原と色とりどりの草花、活気あふれる街の広場、歴史の重みを感じさせる古い銅像、建築物。西ヨーロッパとは違う「異国めぐり」は、思いがけないことが起こり、どこか違う期待と冒険の楽しさがある。
今東欧諸国はEUに加盟しかかっていて、この3カ国も2004年にEUの同盟国になった。しかし、ユーロはまだごく1部でしか使われず、3カ国回るには3種類のお金が必要でややこしい。しかしもっと複雑なのは彼らの心境かもしれない。あるプラハの老人が言ったそうだ。
「私が生まれたころは、チェコはウィーン(ハプスブルグ家)から支配されていた。その後ベルリン(ナチス)の支配下に入り、モスクワ(共産党)の圧制も長年続いた。今やっと自国のプラハに支配権を取り戻したというのに、なぜここで、ブラッセル(EU)に引き渡す必要があるのか。」旅行者も彼らの気持ちを忘れずに、自分の眼で見てみたい。
まずモーツァルトが好んだ「プラハ」。ヨーロッパでは珍しく2つの世界大戦の爆撃を受けていないので、旧市街広場(Staromestske Namesti)をはじめ500~700年前の建造物がそのまま保存されていたりする。朝早く歩いてみる。少し風もあり、6月というのに身震いするくらい寒い。でも梅雨のないヨーロッパは爽快。普段は大賑わいの広場も早朝は閑散としている。教会の腐敗に抗議したかどで、この広場で火あぶりにあったヤン・フス神父の大きな像が、彼に奉げられたティン教会の尖塔を背景に黒い影を作る。反対側の古い市庁舎の壁には縦に並んだ2つの大きな天文時計。見るからに複雑で500年前の人々の頭の良さがしのばれるが、面白いのは毎時の時報のときである。時計の片隅にある全身骸骨の人形が、手に持った砂時計をひっくり返すと、窓から聖人の行列が現れ、鐘が鳴り始める。時報は人間が骸骨に変化していく一里塚だというメッセージを伝える「哲学時計」でもある。
広場を抜けて、モルダウ河にかかるカレル橋(Karluv Most)へ向かう。道は狭い銀座通りのよう。絢爛豪華で精巧を極めるガラス細工、粋なスタイルの操り人形の店、マネキンの首にネックレスだけをウィンドウに展示した店、本屋にはチェコ語の「ダビンチコード」が並ぶ。カレル橋は建築に60年もかかったという石橋の芸術品だ。14世紀にカレル4世がこのプラハから広大な神聖ローマ帝国を支配した記念碑でもある。1357年7月9日5時31分に基石を置いて建築が始まったという。これは数字だけ並べると135797531(ヨーロッパでは日にちを月の前に置く)となり、これは逆に読んでも同じ数字になることから、数字の魔力を信じた当時の人々から、「縁起がいい」とされたようだ。500メートルもある幅の広い橋全体が歩行者天国で、回りには欄干の代わりに彫像が30も並んでいて、川に浮かぶ「みんなの広場」といった感じである。自称芸術家(?)が絵画、写真などの作品を並べる。似顔絵かき、小さなジャズバンド、クラシックのクインテット、加工写真、それに若い男の乞食がひれ伏して帽子を突き出している。面白いのは作品を売る人たちは作品の陰に隠れて、本人はなるだけ目立たないように気を使っていることだ。乞食も顔を地面にこすり付けて、帽子を差し出した状態で這いつくばったまま、背中はシャツの下から露出していても、顔は絶対に見せない。帽子の中のお金をつまみ出されても、気がつきそうにないほどだ。
スメタナが作曲のテーマにしたモルダウ川(チェコ人はヴォルタヴァ川と呼ぶ)はプラハの町を大きく二分する幅の広い帯のようだ。水は川幅いっぱいに流れているが深さはない。見渡しただけでも何箇所かに堰きが作られていて、水路の幅が広くなるように工夫されている。しかし脇には魚や小さな船が行き来するためか、普通の水路も設けられている。両岸に植えられた巨木の緑の間に茶色の屋根が並んで、その中に黒い尖塔が何本も突き立つ。青いネギ坊主のような丸屋根も飛び出す。
橋を渡ると、王宮への登り坂。狭い石畳の歩道をゆっくりと進む。日差しが強く、すぐにのどが渇く。気がつくと王宮の中央。ヴィータス大聖堂の前面の壁がすぐ前に立ちはだかって、大きくのしかかってくるようだ。ステンド・グラスを埋め込みながら、大理石に細かい彫刻やレリーフを施し、アーチ型に積み上げて、この壮大な壁面を完成させるのに600年もかかったという。壁の前は地元の小中学生ですごい混雑。共産圏では遺産を幼い生徒にじかに触れさせる教育を重視しているようで、歴史的遺産の場では必ず教師に引率された小中学生の団体に出会う。しかし彼らが去ると落ち着きが戻る。大聖堂に一人220コルナ(1100円)払って入る。何と、写真撮影を許可してもらうにはプラス30コルナ(150円)。でもそれだけの価値はあった。中のステンドグラス窓は絶品そのもの。三方の窓が、まるで万華鏡で作られた巨大な三面鏡のようだ。フラッシュを光らせて撮ったら横の韓国人から「フラッシュ禁止ですよ」とジェスチャーがくる。面倒なのでフラッシュのないビデオに切り替える。
プラハの旧市街近くにあるユダヤ人居住区もユニークだ。パレスチナを追われたユダヤ教徒が世界に散って、プラハにも住み着いたのが10世紀だから、このあたりでは最も歴史がある。「キリスト教徒とユダヤ教徒は一緒に住んでならない」というローマ教皇のお達しがあったので、少数派のユダヤ教徒は高い塀で囲った狭い区域(ゲットー)に追いやられて住んでいた。それでも当時は鳥の巣のように折り重なった場所に12万の人々がいたらしい。今は塀がなくなり、19世紀に区画整理されて、きれいな場所になってはいる。大部分の人はアウシュビッツなどに送られたこともあり、今では1万人以下に激減しているらしい。まだ当時の様子を保存する博物館や、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)があり、安息日の土曜以外は一般に公開されている。さすが、お金にうるさいユダヤ人だけあって、全部の公開施設の入場券を一括して買っても1人490コルナ(2450円)と馬鹿高い。これがユダヤ商法なのかもしれない。教会儀式の道具や冠、バナーなどだけでなく、一般の人たちの生活が模型で再現されている。木製の食器類、質素な家具調度品などつつましい生活が想像される。ユダヤ教シナゴーグではユダヤ人が頭に載せるお皿を渡され、500年前の仕切りのある木製の長いすに腰を下ろす。祭壇らしいところもなく、偶像の類も一切ない。四方の壁に接して置かれた長い椅子には狭い机が設置されている部分もあり、経典をおいて祈りをささげた様子が伺える。ステンドグラスだけはきれいだが、内部は薄暗く穴倉のようで、目立たないようにできている。壁にも祈りの文句らいしのが大きく書かれているが、装飾の類はほとんどない。やはりキリスト教徒の迫害に会いながら、密教のように自分たちの信仰を守ってきた様子が分かる。
長い間、この付近はプラハでユダヤ人が住むことを認められた唯一の場所だったから、彼らの墓場もこの地域の1箇所のごく限られた場所にある。彼らは一度埋めた死体を動かすことを教義で禁じていたし、火葬の習慣もない。しかし死んでいく人は限りがないので、遺体の上に遺体を置く形で重ねて埋葬したらしい。だから、その上に置かれた墓石もお互いに密着し、ほとんど隙間なく無秩序に散らばり、地震直後の石材置き場のようだ。墓石の間に足を踏み入れることなどは不可能。それでも、たぶん教会の地位の高かった人であろうが、ミニ・シナゴーグの形の贅沢な墓石もある。
別のユダヤ教礼拝堂で、迫害を受けてアウシュビッツなどで殺された人の名前が壁一面に書かれたところがあった。廊下を含め、礼拝堂の壁という壁には上から下まで、一面に書かれた名前と生死の年月日は77,000人にも及ぶという。
東欧の国では人形が芸術的だ。布製のものはもちろん、陶器やガラス細工まで使って、実にカラフルに、入念に製作された芸術的な人形が街にあふれている。国立マリオネット劇場で、ドン・ジョバンニの人形劇を見る。いろいろ工夫があって面白かった。少し早めに行って一番前の席で見ることが出来た。人形劇なので、人間では出来ない動きや誇張が可能だ。モーツァルトがドン・ジョバンニを初演したのがプラハだったということから、モーツァルトに扮した人形が指揮をしたが、入ってくるなりコンサートマスターの手に強烈なキスをする場面から始まる。音楽に合わせて踊るように大げさに指揮をして、観客を笑わせる。大人の背丈の半分くらいの人形を舞台の上から糸で操るのはかなりの重労働のようだ。一人で普通一つの人形しか操れないので、舞台の端から端まで人形が走るような場面では、左右の操り士が複雑な糸を受け渡して、自然な動きを作る。一人だけ老練な操り士がいて人形の口の動きまで歌に合わせて、身体の動きと一致させる人がいた。一幕の終わりでは、突然舞台に雨が降ってきた、最初はトリックだと思ったが、水を観客席まで振りまいて、本物の水だと証明してくれた。観客は大声を上げて騒ぐ。ドンジョバンニ2幕の最後で、石の神がジョバンニをたしなめに現れる場面があるが、そこでは、本物の人間が縫いぐるみをかぶって現れ、変化をつけていたのも、飽きさせない工夫なのだろう。最後には人形と共に「黒子」たちも姿を見せて、喝采を浴びていたが、観客との呼吸がおもしろい。これで、連続講演1300回を超えているというのだから、プラハというところの風土が分かる。
終演になって外に出ると、夕立の後のようで、路面に水溜りができていた。黒い通りを旧市街広場へ。目の前に迫るティン教会の尖塔が照明を浴びて夜空に美しく荘厳に突き立っていた。<次ページへ>
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