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ハンガリーは中部ヨーロッパで唯一のアジア系民族の国だ。HungaryHunは「フン」族で、その系統をくむウラル地方の遊牧民、マジャール人が9世紀にこの地に移動して、今日の基礎を築いた。従って、民族的にも言語的にも、ハンガリーは周りの国とは異質である。騎馬で戦いながら進軍し、領土を確保してきた歴史があるせいか、街のあちこちに騎馬姿の英雄の像が目立つ。タクシーの運ちゃんまでが誇らしげに、それらをたたえる。街の中心、Chain Bridgeの入り口には巨大なライオン像が吠え掛かってくるし、王宮近くにも鷹匠がいたりする。高所にはマジャール人をこの地によんだという伝説的な大鳥Turulの巨像もある。とにかく、どこか勇ましく野生的で、威厳があり、自尊心が高い民族といった印象を受ける。

私自身たいして勉強したわけではないが、チェコ語やポーランド語は何か似た感じがする。しかしハンガリー語は全く違う。例えば、「ありがとう」というのに、チェコ語ではDekujiといい、ポーランド語ではDziekuje.というのに、ハンガリーではKoszonomという。ドイツ語のようなウムラウト付きの母音があるのも他の2カ国語にはない現象。(特殊記号印字不可)

広大なカルパチア盆地を縦断するドナウ河(英語名ダニューブ河)の西側、ブダ、と東側、ペストが19世紀に統合されて、首都ブダペストが出来た。しかしペストはスラブ系のオーブンを意味する語から由来する。それはこのあたりが温泉の出る「熱い土地」だからとのこと。しかし今回は違った意味の暑さがあった。ブダペストの中心Deak広場を通りかかったときに、たまたまワールドカップの「日―豪」戦を屋外のブラズマの大画面で実況中で、その前の芝生では30人くらいの在ハンガリーの両国風来坊たちがたむろしていた。前半日本1点リードの時は日本人の集団が誇らしげだったが、後半オーストラリアが次々に得点すると豪州人の拍手喝采が続き、だらしない風采の日本人フーリガン達は「サイテー」と叫びながら、ふて腐れた。

ブダペストはやはり高台になったブダ側から見る景色がいい。ドナウ河を挟んで、対岸に広がる旧市街と、河にきれいな影を映す見事なゴシック調ドームの国会議事堂を中心にしたパノラマは息を呑むような風景だ。しかし「オーブンの底」だけあって暑い。

ここにあるブダ城付近はずっと要塞でもあり、昔から戦闘が絶えない場所であった。特に第2次大戦最終局面でナチスがここに立てこもり、ソビエト軍が包囲して6ヶ月間も死闘が続いた。それだけに、60年たった今でもナチスの本部があった建物の正面など無数の弾痕が生々しい。

その近くにある聖マシアス教会では、オスマントルコに占領される前に、貴重なマリアとキリスト像が破壊されないように壁に塗りこんだという。それが、トルコの占領中の1686年に地下弾薬庫が爆発して、壁が落ちて偶然姿を現し、驚いたトルコ人は逃げた。その像がいまだに脇の鉄格子の中に公開されていて人だかりが絶えない。

この600年間、ハンガリーは常に外国の支配下にあった。が、ただ1つだけ例外があった。それが、12世紀の1時期、王位についたマジャール人の血を引くマシアス王で、国民の尊敬のまとだった。彼は芸術に理解があるだけでなく、平民の服装に着替えて気づかれずに町を歩き、人々の暮らしを見て、統治した。その王に奉げられた聖マシアス教会は人々にやさしい。年配者割引があるだけでなく、貴重な文化財もめずらしく撮影自由だ。160年前の美しいステンド・グラスも戦争中ははずして隠されていたので、破壊されずに戻された。

ブダペスト郊外電車で40分くらいのところで、ドナウ河は90度南方に曲がる。ここはDanube(Donau) Bendと呼ばれて、河岸にセンテンドレ(Szentendre)をはじめいくつかの村がある。ここは土地の人にも有名な観光地で、ツアーに乗ると1万円だが郊外電車でセンテンドレへ行けば往復で500円。だから電車でいく。途中地下鉄のデアク広場(Deak Sq.)M1号線に乗り換えようとしたら、混乱している。やっと英語が通じる程度の不親切な駅員がいるだけだったが、駅の工事で8月まではバスの振り替え輸送になっている区間があることが、やっとわかる。バスに乗って行き先を確かめようとしたら、突然英語が返ってきた。現地人でもきちんとした人はきれいな英語を話す。確かにスペインやフランスなどより、英語人口は多い感じがする。

センテンドレは絵葉書のように美しい小さな村だ。土地の若者のデートの場所でもあるらしい。まずはInformationの場所を聞きながら探す。看板も見当たらない。窓ガラスに小さなiの字が張ってある家がそうだった。ドナウ川がすぐ裏に流れている。付近は明るい茶色の屋根に白壁。緑のドア。茶色の屋根には半円形の窓がのぞく。中央広場以外では人通りはなく、太陽が照り付ける。暑い。高台に古い教会が見える。狭い通りを抜けて、石段を登りつめると展望が開けた。屋根が折り重なる向こうの緑の中に薄緑のドナウの水が静かに流れる。カラフルな家並み、尖塔。ここでは疫病の流行したことがあり、生き残った人が感謝の気持ちで建てた十字架が広場の真ん中にある。黄色の壁の中に大きく口を開けたようにしてみやげ品を並べた店が並ぶ。長く吊るしてあるパプリカ、乾燥唐辛子の赤がひときわ目立つ。

ブタペストへ戻って市場館(Great Market Place)へ。まるで大きな劇場ではないかと思わせるような巨大でどっしりした建物だ。ところが、入り口の格子戸が降りかかっている。7時過ぎまで明るい時期というのに、そしてお客がまだ入り口にあふれているというのに、5時に閉館。共産主義時代の名残か。55分に着いたのに格子戸から中をのぞいて終わり。トイレを探す。マクドナルドがあるが、これも夕方6時にならないと開店しない。やっとトイレのマークがある地下道入り口が目に入る。番人がいて50円取られる。1日中くさい中に座っていて、ご苦労様だが、5円足りなくても用足しさえできない仕組み。

土地の人たちが利用するスープやサラダが並ぶ店を見つけて入る。スープと肉料理、サラダに飲み物がついて1人700円くらい。昨日の半額だ。つまりここにもダブル価格がある。観光客のための特別料金と現地庶民の値段だ。これが、共産圏だった国の新しい時代への適応の仕方かもしれない。若い女性が「携帯」をテーブルにおいたまま店を出ようとする。教えてあげたら随分感謝された。


 今日からレンタカー。アメリカ系のレンタカーは高いので、インターネットでVecarというチェコの業者に予約を入れておいた。E-Mailのやりとりでネット・ページ唯一のオートマ車Opelを予約しておいたのに、行ってみるとチェコ製のOctaviaという1600CCの車しかない。大きな声で何度も抗議したが、「すみません」の一点張り。ラチがあかないので とにかく車を見たら、まあまあ良さそう。それに決めてとにかく出発。右側通行でマニュアル車というのもかなり経験があるので、何とかなると思ったが、車自身の操作には違いがあった。まず、足元に別のキーを差し込むところがあり、ロックをはずしてから、普通の位置にあるエンジンキーを差し込む。つまり盗難が多いので2重鍵になっていること。ドアのキーを開ける時にトランクが連動して同時に開錠される仕掛けなので、トランクにキーを差し込むと逆に鍵が閉まってしまうこと。ガソリン注入口を開くにはキーを差し込んだまま何度も回すことなどだ。これだけのことも人に助けてもらったり、試行錯誤の末分かったことだ。

南ボヘミアの世界遺産の村チェスキー・クロムロフ(Chesky Krumlov)を目指す。ガソリンスタンドで近くの町への道を聞いても「知らない」という答え。トイレもない給油所が多い。ガソリンのレジはお金を受け取り、おつりを出すのが仕事で、道を教えるのは仕事に含まれていないという感じ。ハイウェイを走る乗用車の平均スピードは時速130キロくらいだが、時速制限の表示版はあまり見当たらない。パトカーも全くいない。高速道路は一切無料だが、車の所有者は道路代を一括して年に2000円くらい払わされて、窓にステッカーを貼る仕組み。高速道路の休憩所はよく完備されている。しかし高速を離れても、道路の周辺は平原が続き、林もあるし、人影もないので、「どこでもトイレ」ということになる。もちろんカーナビの組織はないので、地図と標識だけが頼り。だからよく道に迷う。でも地図を広げてあたりの人に見せると言葉が通じなくても、親切に教えてくれる。あるときは1人でサイクリングをしていた女性が、私が鍵で混乱させた車のトランクを苦労して開けてくれた。プラハから南の国境に近いチェスキー・クロムロフへの道は外国人にはなかなか複雑なルート。何とか町まではたどり着いても、我々の目指すPension Loboへの道が分かりにくい。屋外のビアホールで飲んでいた親切な人が、わざわざかなりの距離を歩いて案内してくれた。ワールドカップ情報も知っていて「日本は残念だったね」と言いながら。

翌朝6時半にゴミ収集車がごみ集めに来る。日ごろが静かな環境だけに、ものすごい雑音。ペンション前に置かれた2メートル四方くらいある鉄製の箱をクレーンで持ち上げて中身だけをトラックに落とし、元の位置にクレーンで戻す。これは東ヨーロッパに共通したごみ収集法。朝食はきれいに盛り皿してある。豊かな食事。これで1泊朝食付一人2500円。部屋は日本のペンションと違ってホテル並みに広いし、シャワー、トイレつき。壁がみかん色一色で、カーテンもみかん色。布団もみかん色を基調にした模様。シーツまで同じ色。ベッド、家具、机いすキャビネットまでが木肌が出ているので、黄色。色には細かく気を遣ってある。いすに座って見渡すと何となく、ホッとする。アメリカ・イリノイからきた小学校教師夫婦に会う。毎年来ている様子。「プラハから運転して来た」と言ったら、信じられないという顔をした。出掛けにお城のツアーの時間を宿の主人に尋ねると、まず「Check-out11時ですよ」という。今日チェックアウトするものと勘違いしている。昨日はチェックインしたら、すぐに部屋まで挨拶に来て、「何かご不満なところはありませんか?」 と丁寧に聞いていったのに、10人もいないお客がいつまで滞在するか、さえつかんでいない。ちょっとチグハグな感じ。

城内の見学は英語のガイド。学生アルバイトらしい。でもかなりきれいな英語で、歴史をとうとうと述べる。細かく調べてある。チェコの歴代王とローマ法王庁との関係、ハプスブルグ家との関係、王宮での生活。とくに衣食住と社交パーティなどの様子。特に盛んに催された仮面舞踏会の場所では周りに描かれた135人の人物、道化、楽団員などの風変わりな描写を丁寧に説明する。その舞踏会場は渡り廊下経由で「バロック劇場」へつながっていて、舞踏に飽きると逃げ出して、演劇鑑賞をしたようすが分かる。そのバロック劇場は貴重な遺産で、客席も舞台もロウソクだけの照明。出し物が面白くないと2階の正面の貴賓席にある幕が閉じられて、役者は俸給がもらえない仕組みになっていたらしい。舞台下までみせてもらったが、舞台上両脇から10枚くらいの背景を次々に変えるのを舞台下で操作する仕掛けが巧妙。面白いのは舞台正面下の床下に小さな部屋を作って忘れたセリフを教えるプロンプターのボックスが隠されていることだ。その他、舞台を暗転させるときに、舞台のロウソク照明を、瞬時に壁の後ろに移動して舞台を暗くするシステムなどは300年前のまま。現存するバロック劇場は、ここ以外には、あとスウェーデンに1箇所あるだけとのこと。冷房などないのに内部は半そでだと思わず身を緊張させるほどひんやりする涼しさ。目立つ位置にある王宮への説明付きツアーは頻繁にあるが、その陰に隠れたバロック劇場への英語ツアーは1日に3回しかないし、日本語のツアーは全くないそうだ。

 夕食はヴォルタヴァ(モルダウ)川を眺めながらチェコ料理を食べた。小麦粉を卵でこねただけのダンプリング(クニドリキ)を肉と肉汁に添えて出すグラーシュという料理。量といい、味といい好みどおり。しかも安い。
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今日はチェックアウト。ペンションの主人に南ボヘミアで自然のきれいなところを推薦してもらって、ドライブに出かける。39号線を南に下がってドイツとの国境近く、この国では珍しい山がちな国立公園に入る。まずはプラハを流れるヴォルタヴァ河の上流のLipnoという湖に出る。日本にこれだけの湖があったら大観光地になるだろうななどと思いながら、真夏の太陽の下で緑の中に広がる静かな湖のそばに立つ。まだ黒い影が一面に広がる向こうの方で、ボートに乗って釣りをしている人がいる。再び運転。一面に明るい緑が広がる山の斜面に白壁と赤い屋根の家が点在するのが見える。スイスのようだ。だが、観光化されてはいないだけスイスより快い。それに値段はスイスの4分の1だ。牧場には牛が放牧されていて、片側の、丸太でつくったカフェの近くではビールを前に談笑している人たちがいる。さらに進むと、ホテルの看板があった。英語がほとんど通じないので、思い出したドイツ語でZimmer(部屋)Heute(今日)とだけ言ってみると、すぐに反応した。だが空き室はないという。週末なので当然なのだろう。つぎに目に付いたPensionというマークのところを当たってみる。今度も英語はダメ。でも意思は通じて、部屋を見せてもらった。値段はツインの部屋が600コルナ(3000円)。安いけど、やや狭く、あまりきれいでないので断る。しばらく行ってSrniという小さな村にやや大きなホテルを見つける。大きな三角屋根で窓には赤いジェラニウムが飾られていてきれいだ。聞くと2人で一部屋朝食付き1200コルナ(6000)だという。ここに決めてチェックイン。窓のそとには個人用のベランダがあり、右には巨大な青いネギ坊主のような教会の尖塔がそびえ、後ろに深緑にうねって広がる低い山々の斜面には黄緑の草地が続く。左右に広がる草地には扇を広げたような丸い木々が点在し、その前方に3階まで窓がついた切妻屋根の壁が光っている。静かだ。外を歩くと、会う人がみなDobri den(こんにちわ)と気軽に挨拶を交わす。道端を行く老人と話していると、チェコの北から来たという。もう退職して歩き回るのを楽しんでいるらしい。そのとき、1台の車が通りかかる。彼が手を上げるとセダンを運転する若者が止まり、ちょっと話をして乗り込み、やがてBye!と消えた。老人だが、ヒッチハイクをしようとしていて、うまく乗せてもらったのだ。

散歩をすると足元の色とりどりの野生の草花が目に入る。藤の花を逆さに立てたような花、それも紫だけでなく、ピンクや白黄色など。アザミを大きくしたような花、菜の花を思わせる黄色い可憐な花の広がり、レンゲの花びらの巾を広くしたようなピンクの花。それに木々も、紫やドッグウッドのような白い花を一面にかぶっている。また巨大なもみの木を思わせる常緑樹が黄緑の新芽を大きく突き出す。その道路わきに、英語を話すスロバキア人の女性がTシャツ屋を開いている。チェコ語はほとんどダメだというので、「英語がほとんど通じないこの地域で生き延びられるの?」と聞くと、困ったらチェコ語を話せる母に電話するという。チェコ語は目下習得中だが...とのこと。でもこの田舎で英語で話せる相手を見つけて気持ちがすっきり。

まわりに食堂などないので、ホテルのレストランで夕食をとる。ウェイトレスが来たが英語がまったく通じない。ドイツ語ならと言うが、こっちは分からない。隣にいた老人がフランス語で手助けしようとして「フランス語はしゃべるか?」とフランス語で聞いてきたが、ダメと断る。スープ(soup)といってもキョトンとしている。仕方がないので、ズッペ(Suppe)と言うとすぐに反応した。メニュもチェコ語とドイツ語だけ。肉やパンのドイツ語が思い出せない。そのうちメニュにFischReisとあるのに気付き、fishriceであることが分かったので、見当をつけて注文。ビールのチェコ語pivoは知っていたのでOK. 何が出てくるかお楽しみだったが、予想通りの魚のフライにお米が乗せられて、肉汁がかかったものが出てきた。思わずチェコ語で”Dobre!“(=Good!)というとウェイトレスもホッとしたように笑顔になった。スープも予想通りでうまかった。全部で2人分800円くらい。給仕さんにはかなり苦労をかけたので、少しチップをはずむ。食事が終わって、ホテルのインターネットのデスクで「チェコ語←→英語辞典」を検索し、オンライン辞典で必要な語をピックアップし、書きとめた。明日からはこれで行こう。

山の端に日が落ちる。時計を見ると午後8時半。日没後もスカイラインがきれいで、その上の明るい空のところを、黒い鳥が行きかう。雲はまだ残照を輝かせて、広がる。手前は次第に暗くなっていく。教会の鐘が時を告げる。下を見ると、ホテルの客が二人ずれで三々五々。食後の散歩らしい。ベランダにいると少し肌寒さを感じる。昼間のきびしい太陽がウソのようだ。居心地がいいので、もう1日ここに泊まることにした。

夜中には大雨が降っていたが、朝はウソのようにまた快晴。この安い宿泊料金なのに朝食は豪華。やはり三ツ星ホテル。20キロくらい先のKasperske Horyという町に出かけてみる。プラハに通じるヴォルタヴァ河の源流にそって巾の狭い舗装道路が続く。昨日の雨で水量がかなり多い。奥入瀬を大規模にしたようなところ。ほとんど車に出会うことはない。時たま向こうからスピードを上げた乗用車がくるときはすれ違うのにちょっと気を遣う。道の両側には巨木が林立するが道路の淵にたっている木にはペンキで白い帯がつけられていて、うっかり衝突しないように工夫してある。あたりは姿のない小鳥の声の合唱。昨日降った雨がところどころに沼地を作っている。森をぬけてまた両側が広い緑の平原が現れる。道に沿った巾の狭い草地は自然のままだが、野草が黄色、ピンク、紫、白などの小さな花を咲かせて、自然が作った花道が続く。ドボルジャークはこのボヘミアの出身で、彼がアメリカで作曲した「新世界交響曲」はボヘミアを懐かしんで作られた曲だ。このあたりをさまよっていると、あの曲の2楽章の後半の感じと、この空気が不思議に一致するような気がする。うっとりしている間にRejstejnという村にきた。道の分岐点で方向が分からなくなり、子供連れの母子に地図を見せて尋ねる。子供が元気よく方向を指差して、教えてくれる。

Kasperske Horyはいつものように中央に教会がある広場を中心とした小さな村。スーパーマーケットが1軒だけある。大瓶の水とパン、果物、トマトなどを買って全部で200円くらい。近くの赤い土壁の家のところで壁一面にTシャツやショールなどをぶら下げて、長いすのような台にも帽子や靴を重ねて売っている男がいる。通るとDobry den!「こんにちは」と声をかけてきた。わずかに英語が通じるようなので、話しているとベトナムから来てここで稼いで、家族に仕送りをしているらしい。

夕方、部屋の電話のジャックをノートパソコンにつないで、内蔵アナログ・モデムを働かしたら、この地方の、私のプロバイダーの海外ローミング用のアクセスポイントに接続できた。ホテルからチェコの市内電話代が25円くらいかかるが、アクセスそのものはタダ。この方が無線LANより安上がりだが、アナログ回線のためデータの送受信に時間がかかる。とりあえず、東京の自宅にアウシュビッツ前で撮った自分の写真を添付して送ってみる。「送信完了」となったので、多分OKだろう。ただ、送信のまえに「受信」ボタンを押して、自分の送信場所をはっきりさせ、サーバーが悪用されないようにする操作が必要。

 良きにつけ悪しきにつけ、半世紀にもわたる共産主義体制の痕跡が残っている感じがする。
 まず、道を教えるとか自発的な好意を示す親切はあるのに、いったん「仕事」になるとひどく官僚的・事務的になる人が目に付く。最初にプラハの地下鉄(Metro)に乗ろうとしたとき、50コルナ札(250円札)しかなく、切符販売の窓口がなかったので、どうしていいか分からなかった。たまたまそばに居た、チェコ第2の都市ブルノからきたという英語のうまい女性教授が助けてくれようとした。「券売機を使うので、50コルナのお札をコインへ両替してほしい」とキオスクで頼んでくれた。ところがNo。やむを得ず、周りの何人かの人に両替を頼んでくれるが、ダメ。そのうち頼んだ一人が「キオスクで切符を売っているよ」という。再び同じキオスクで聞いてみると、今度は切符を売ってお釣りをくれた。それなら、なぜ最初に「ここで買えますよ」となぜ言ってくれないのか?そのチェコの大学の先生も苦笑していたが、「お客」という概念がまだ存在しない社会だ。

道を聞きにみやげ物屋に入る。レジで何かやっている人に声をかけても無反応。何かやっている手を休めない。仕事中。そのまま2,3分待つと、やっと顔を上げて、急に大きなスマイルをつくり、今度は親切に教えてくれる。これは当然かもしれないが、顔の表情の変化がおもしろい。

鉄道はよく発達しているし、安い公共機関だ。急行に1日中乗っていても、7000円か8000円程度。そのせいか鉄道側で「乗せてやっている」という意識が目に付く。最初にプラハ北駅(Praha Horesovice)へ行ってポーランドのクラコフまでの切符を買おうとしたときも、年配の女性窓口係がまず言ったのが「クラコフ行きは中央駅(Hlavni Nadrazi)へ行って買ってくれ」だった。私は北駅で買えることを調べて行っていたので、ここで買えるはずだと強く言ったら、しぶしぶ電算機をいじり始めて、結局売ってくれた。だが、わざと(?)座席指定券を発行しなかったのだろう。次の日に乗車直前にあわてて「座席券」を買い足すハメになった。とにかく、「仕事はいやいやながらやっている」ということをうんと見せつけられる。偶然かもしれないが、ポーランドやハンガリーの窓口の方がずっと感じが良かった。

一方、乗客の方もとても「従順」そのもの。列車が何番線から出るのかを知らせるのは電光掲示板の小さな数字だけ。それも、出発の10分前になっても番号が出ないことがよくある。それまで、乗客は椅子もない待合室やホームの端で立ったまま、かたまりになってじっと忍耐強く掲示板を見つめて続けている。列車が遅れていても、放送があるわけでもなく、駅員に聞いても、パソコンの前に座っている案内係りに聞いても、本気で取り合ってくれない。「お客」ではないのだ。だから、プラハ駅に暖房や薄型テレビのある「1等待合室」などが出現するのは画期的なことなのだろう。

南ボヘミア・ドライブのところに書いたように、一般の、仕事以外の人は実に親切だ。ただ、ときどきタイミングが合わないこともある。クラコフからブダペストへは昼間だと、列車を5本も乗り継いで、11時間もかかる。その4本目の乗り継ぎ駅はチェコのプレロフ(Prerov)だった。その駅では乗り換えに5分しか余裕がないことは調べて分かっていた。たまたま前の座席にいたプレロフ在住の年配の人と話しているうちに、親切心から、「私もそこで降りるから着いたら案内するよ」と言ってくれた。ところが、着いてみると本人も迷っている様子。「駅舎の方へ行って聞いてくる」と言って消えた。そのとき、私が地下通路から見上げると、たまたま乗るはずの列車の表示板がかすかに見えたので、階段を駆け上がって滑りこみセーフになった。1日に何本も出ない列車なので乗りそこなうと大変だった。

共産圏だった国々では、なぜか本屋が目に付く。ブダペストの市街地の広場は早朝から本屋のキオスクの行列ができる。店の前にテーブルと椅子を置いて試読の場所まで用意され、朝から本を手にしている人がいる。どちらを向いても本、本、本だ。そして本を買い求める人も多い。マンガは全く見当たらない。電車の中も、地下鉄でも真剣に読書する人々が多い。ポーランドのクラコフ駅の地下通路も端から端まで本屋のキオスクが占領している。

日本サッカーの監督になったユーゴ出身のオシム氏は、レーニンが「勉強!勉強!勉強!」と言ったのを思い出して「走れ! 走れ! 走れ!」と選手たちに言ったそうだが、共産圏の人には勉強の態勢が出来ているのかなと思えてくる。確かに共産主義社会だと、日本と違って、「金儲け」の必要や競争があるわけでもないだろう。衣食住は保障されているとすれば、仕事に競争原理は働かない。しかも社会で割り振られた仕事には興味や新鮮味を持てずに、多くの人はいやいやながらこなすことになるのだろう。しかし、その充実感のない仕事を終えた後、自分の時間が待っている。それを充実させないでは生きる意味がなくなってしまう。そのとき「勉強」つまり「読書」が待っていて、必死になって充実した時間を作ろうとしているようにも思える。そしてチェコではそれが「芸術熱」へと発展している気がする.。建前はともかく、お金がすべての日本とは少し違う。お金もうけ以外の価値を真剣に見出そうとして生きている人たちのようだ

実際、長く共産圏にあった国では、生活の基本的な部分は非常に安い。国が作った大ホールのようながっちりした建物に、無数の小さな店が陣取り、安い生活物資を流通させる。土地の人たちが集まる食堂ではうまいものが非常に安く提供される。しかし、外国人観光客はこのルートには乗りにくい。だから、例えばプラハの観光客は1.5リットルの水を90コルナ(450円)で買うことになるが、土地の人は田舎の店で同じものを10コルナ(50円)で買っているのだ。プラハの外人用一流ホテルは14万(1室)もするのに、チェコ人対象の田舎のペンションだと13千円(1室)ということになる。先にも書いたが、ポーランドのクラコフからアウシュビッツへ行くのも、外人用観光バスだと4200円なのに、路線バスだと往復490円という価格の二重構造は共産圏ではよく見られる現象だ。だから、土地の人の目線で行動し、観光産業に乗せられずに旅をすれば、驚くほど安くなり、理解も深まり、失敗しながらもワクワクするような毎日を経験できると思う。<終>

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