インディアナ到着まで インディアナの9ヶ月 Kennedy先生 大岡 明という人 ENGLISH VERSION
私の母の兄、大岡明は22才でアメリカへ留学、2つの大学で学位をとった直後、24才の若さでアメリカで病死した。突然の息子の死後、父親の破挫魔は生前息子と関係のあった内外の友人恩師などから送られた追悼文、本人の日記・手紙などをまとめた「夕映」(The Evening Glow)というタイトルの本を残した。たまたま先日地震で落ちた母の本棚を整理していたら、その1冊を見つけたので少し読んでみたら面白くなり、書かれている場面などをネットなどで参照しながら読み終えた。丁度今年はその明伯父が亡くなって80年目にあたる。旅客機、テレビ、インターネットはもちろん国際電話もない昭和初期に、一人の日本人がどんな思いで遠い外国に船で渡り、どんな留学生活をしたのかがありありと記録され、非常に興味深かった。
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明は明治41(1908)年1月22日に中国の漢口で生まれた。父破挫魔(はざま)は日本綿花株式会社(後の「ニチメン」「双日」)勤務で当時中国在住であったが、半年後には神戸市須磨の自宅に戻り、明は府立北野中学(今の北野高校)に進んで、神戸高商(今の神戸大学)を昭和4年に卒業と同時に、渡米。シカゴの南方Bloomingtonにあるインディアナ大学に入学。1年で商・財政学の学士を取得後、更にニューヨーク大学に移って勉学に励み、1年でMBA(経営学修士Master of Business Administration)を授与された。
彼はニューヨーク・マンハッタン中部、ハドソン川沿いのInternational Houseの308号室からマンハッタン南部のNew
York Universityに通っていた。International Houseは大富豪のロックフェラーが寄贈した建物で世界中から500人近い学生が寄宿していたようだが、そこからNew York Universityに通う学生で、それまでに1年間でMBAを取った者はいなかったという。
大学院は内容も深まりレポートや学期の小論文などの量も多く、内容も深いものを要求されるので、大抵の学生は年間4〜5科目しか取らないのに彼は7科目も取った。もともと学部課程のIndiana University (=IU)を終えたときに帰国するはずなのを親に頼み込んで留学1年延長を認めてもらってNew York University (=NYU)に来ていたので、何としても1年で終えたいと思ったようだ。だから最初に考えたハーバード(Harvard University)はあきらめた。入学時に科目選択のアドバイスをしたNYUのGoss教授も2年で取るように勧めたようだが、彼は何とか頑張るからやらせてくれと無理に頼んだ。そのときの明の強引さに驚いたGoss教授も彼のその後の頑張りを見て、自分の判断は間違いだったと認めている。しかしアメリカ人でも1年では難しいと思われていることをやってのけたのだから、相当の無理をしたのだろう。
それに日本人の場合は英語のハンディもある。インディアナで1年過ごしたことで英語に対する慣れと自信は多少あったと思われるが、彼は親友の松本寅一と「日米学生協会」(Japan American Students Club)という組織まで立ち上げ、日米親善の活動を平行して行っていて、その座長でもあった。当時International Houseには13人の日本人がいた。しかし彼らはお互いにまとまり過ぎて、会うと日本語で話し、自分の英語を他の日本人に聞かれるのは恥ずかしいと思っていて閉鎖的であった。たまたま当時の国際人の代表的存在であった鶴見祐輔氏がInternational Houseを訪れ、ホールで行った日本に関する講演を聴いた明はその考えに大いに感動し、「日米学生協会」の発足を考えて実行した。
それでもNYU入学後2ヶ月の中間試験では88点(最高点は92)をとり、60人中で5〜6番の成績だったという。当時の日本では昭和初期の世界不況の最中で、濱口首相は狙撃されて翌年には亡くなり、震度6の伊豆大地震が追い討ちをかけて混乱していた。New Yorkでも「失業中」(Unemployed)という札を下げた若者が町角でリンゴを売っている。彼は経営学部長のCornell教授と相談して、その状況を踏まえ、卒業論文は「不況時に業界はいかにして失業者数の減少を図っていくか」(How Industry Is Relieving Unemployment
in Period of Depression)に決めて懸命に取り組み、次の年(1931年)1月にはそのOutlineを作ってCornell教授に提出する。勉強の合間にはNew York Times本社を見学したり、ロックフェラー夫妻に学生招待会に招かれてその息子と同じテーブルで意見交換をしたり、陸軍士官学校(West Point)を訪れたりしている。また2/14の「日米学生協会」の会合は、コロンビア大学・日本語教授の清岡暎一氏(福沢諭吉の孫)夫妻も加わって米人8人と日本人7人の会になった。完璧主義の明はクリスマス・カードも183枚(日本人宛101枚、米人など82枚)も書いた。
しかし1月下旬の学期末成績は彼の予想以上だった。評価はA(=Excellent),
B(=Good), C(=Fair), D(=Barely passing),
F(=Failure)だが普通はCでBを取るにはかなり骨が折れるという。しかし、平均でB以上でないとMBAの学位は取れない。彼の最終成績は
Management(経営学)---Office
Management(会社経営) (A)
Management(経営学)---Cost
Analysis for Managerial Uses(経営効果に対する費用分析) (B)
Management(経営学)---Production
Control & Time Study(生産管理と時間管理) (A)
Management(経営学)---Management
Principles & Practices(経営の原則と実践) (B)
Marketing(商学)---Marketing
Policies & Practices(販売の政策と実践) (B)
Marketing(商学)---Advanced
Marketing Problems(高度な市場活動諸問題) (B+)
Economics(経済学)---Business
Philosophy(事業哲学) (B)
と1つもCを取らなかった。他の日本人学生は「BCCC」とか「BBCCD」などが普通で、アメリカ人でも全部B以上をとる人は少ないという。そして難関の口頭試問(Oral Examination)が4月にあり、それを合格すれば、あとはすでにその構想を提出してある卒業論文を完成すれば修了となる。
4/22に行われた口頭試問は4人の教授によって専門コースの詳細にわたって難解な質問が35分間続いた末、1回でパス。口頭試問は1年に2度しか機会が与えられず、パスできなくて2年3年と留年する人もいるらしい。
その後卒論をまとめるのに1ヶ月くらいを費やした。だか彼には考えがあり、すぐにそれを提出せずに夏休みのあとで提出することにした。その前にすることがあった。今までの集中した勉強から気持ちを解放してもっとアメリカを見たい。Indiana大学で親のようにお世話になったKennedy教授の家をもう1度訪ねてお礼を言わねばならない。さらに「日米学生協会」を広める気持ちも強かった。彼はドライブを計画する。1ドル=2円の時代で、最安値だと20円〜30円でオンボロ中古車も買える時代だったので、彼もNew Yorkに移るときに中古のシボレーを買っていた。これがやはりかなりひどい車で、エンジンをかけるのも大変。手動のクランクを回してもダメなときは宿舎の仲間に手伝ってもらって坂の上まで押し上げ、方向転換して坂を下る力で始動したこともあった。それでも当時の車は大型でその中に寝ればホテル代は不要、野原で枯れ草を燃やして料理をしながら、6/6から2週間をかけて3200kmを走破した。運転免許は、New Yorkに来る直前オハイオ州で寄ったKennedy教授の家でお世話になった時期に取っていた。しかしドライブに同行した親友の松本寅一やフランス人留学生には免許がなく、彼の一人運転だった。
2週間後無事New
Yorkに戻ったら、今度は帰国前にヨーロッパを回って帰国するという次の計画を立てる。しかしすでに1年延長留学させてもらっている上に、そのための費用を親に頼るのは気が引けるので、自分で学んだことを実地に試し、かつ多少の費用も稼げるという商社へ、親友の萩原喜作を誘ってアルバイトに出かける。就学ビザではアメリカの会社で働くことは望めない。そこでNew Yorkの南130キロにあるニュージャージー州のOcean Cityという海岸沿いの町にある日本人の経営する会社に日本綿花ニューヨーク支店の仲立ちで行くことになる。ところが2週間も働いたころ、それまでのすべての疲労がいっぺん限界に達したかのように、突然7/10の朝、文字通り卒倒。一緒にいた学友の萩原は驚いてすぐに当地のへインズ医師に診断を依頼。近くのShore Memorial Hospitalという病院に入院ということになった。主治医も最初は楽観視していたし、萩原が見舞うときには、彼も看護婦に元気に話しかけていたり、握手をもとめてきたりしていた。しかし入院後20日しても容態が良くならないので、New Yorkから巖本医師を招いて診断を受けたところ、「決して楽観を許さない」という。実際その頃は彼の体温も40.5℃(105F)を前後した状態が続く。8/6になって体温は低下し平熱に近くはなったが、取りとめもないことを口ばしっているだけ。驚いた萩原は最後の言葉を聞き出そうとするが「俺はまだ大丈夫だよ」と言いながら、そのまま意識を失い、その日の午後5:30に24才の人生を終えた。
8/9ニューヨークに移された遺体はMadison
Ave.のCampbell葬儀社で大堀牧師のもとで告別式をしてGrendale Long Island Fresh Pond
Crematoryで荼毘に付された。旅客機のない時代に遺体を日本へ移送することは出来なかった。帰国する日本綿花の社員の手で春洋丸に持ち込まれ横浜港に待ち受ける父のもとへ遺骨が届けられた。死後1ヶ月以上も経過した9/8だった。2年前には希望に満ちて笑顔で出て行った息子が遺骨となって戻ってきたのを迎えなければならない父の心持は全く胸も張り裂けんばかりだったに違いない。埠頭に近いニチメン横浜支店の1階応接間には焼香台が設けられ、彼のデスマスクの写真が回されて数十名の参列者が涙したという。その前日の1931-9-7にはアメリカから北太平洋横断飛行を遂げたばかりのリンドバーグ夫妻が、同じ建物の2階にあった米国領事館を訪れて祝福を受けていた。またモイル(Donald Moyle)、アレン(Cecil
Allen)の両飛行士がアメリカへプロペラ機で無着陸横断飛行に日本を飛び立ったのも、明の遺骨が着いた9/8であったのも何かの奇縁かもしれないと彼の父はいう。
父に抱かれた遺骨は当時最速の特急富士で東海道を10時間かけて神戸へ。神戸駅頭へ出迎えた母、妹たちが霊壷にすがり付いて泣いていた状況は悲痛の極みだったと父は書く。その後大阪の正泉寺で告別式が行われ、しばらく須磨の満福寺に預けられたのち、両親は遺骨をもって1932-3-20に神戸港から郷里、長崎島原にむかい、島原藩主松平家の菩提寺でもある瑞雲山本光寺の大岡家の墓地に「清涼院徳山明洋居士」という戒名の石碑を建てて彼を埋葬した。
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