New Yorkと小型飛行機操縦 Long IslandとNew York Times見学 アミッシュ訪問とMLB クリーブランド美術館と上院議員パーティ
86年前伯父がアメリカ留学中にお世話になったインディアナ大学教授の親族の方たちと「再会」する旅をした。伯父(大岡明)はインディアナ大学に1年、ニューヨーク大学院でMBAを取るために1年過ごし、帰国寸前に倒れて24才でこの世を去った。過酷な勉強に追われる2年間だったようだが、1年目が終わった夏休みの2か月を伯父は、担当のKennedy教授に招かれて、Cleveland近くエリー湖を望むWillowickの彼の家で家族の一員のように過ごさせてもらっていた。その時期が彼のアメリカ留学中の最も心に残る経験であったことは、祖父が伯父の死後まとめた遺稿集「夕映え」の伯父の日記に詳しい。実際、伯父は教授の指導で運転免許まで取らせてもらい、NewYork大学に移動するときは2台の車を連ねての家族旅行でNew Yorkまで送ってもらってさえいる。だから彼はNew York大学を終えた直後に友人とドライブ旅行を計画し、再度このWillowickを訪ねてKennedy教授に感謝を述べ、教授も彼の車を点検してくれたりして、2人は再会を喜んだ。
たまたま2011年の東日本大地震で本棚から落ちてきた本の中に、遺稿集「夕映え」を見つけて読んで魅かれ、それをまとめてタントに書いたりしたので、その内容はずっと頭に残っていた。そしてしばらくして、これも偶然だが、この伯父が過ごした地域に住んでいるアメリカ人夫婦(Marc and Lana Moresky)と東京で会ってガイドする機会があった。彼らは私の伯父の話に興味をもってくれて、親切にもWillowickのすぐ近くのWilloughbyにあるWilloughby Historical SocietyのRonald Taddeo氏を紹介してくれた。これもボランティアの団体で、その地区の歴史に興味を持っている人たちで、好意で仲間と一緒にこの件の調査を受けてくださった。
しばらく調査が続いた2014年の秋、驚くべき結果がTaddeoさんから知らされてきた。何とそれまで正確な場所さえ分からなかった86年前に伯父が過ごした家が見つかったという。それだけではなかった。当時伯父が一緒に過ごした教授の妹さんJenny (正式にはGenevieve)がまだその家にまだ住んでいて、生きているというのだ。96才だったが、まだ頭脳明晰で普通の生活をしており、私たちは手紙の交換を始めた。彼女は「カラスのように黒い髪をした神戸からの日本人」をよく覚えていた。そして「2015年の春にはアメリカで必ずお会いしましょう」と約束をした。彼女の娘さんたちの話では、「母はこの話題が出てから、毎日生き生きとして、昔話を娘たちに聞かせた」そうで、そんな母とともに素晴らしい時間を過ごせたと喜んだ。だが、異常気象が続く極寒の冬は老齢の彼女には酷すぎて、12月には突然その生涯を終えてしまった。
これでこの話は終わりかと思われた。だが、2015年の春にはJennyの娘のJaneさんから、「母は亡くなったけど、とにかくいらっしゃいませんか?」との誘いを受けた。家族で相談し、私と弟の道彦とで行ってみることになった。電話でも連絡がつき、2015年6/16(火)の10時に伯父が過ごした家で会うという約束をした。Historical SocietyのTaddeo夫妻に知らせると彼らも来てくれることになり、この話を最初にアメリカへ持ち込んでくれたMoresky夫妻、それにJaneの妹のLindaもSouth Carolinaから、Kennedy教授の娘さんたちEmilyとRosalindもそれぞれMassachusettsとNew Yorkから駆けつけるという知らせも届いた。さらに、この話を私の知人New York Times記者のChristine Negroniさんに知らせると、その友人のCleveland地元紙”News Herald”の記者Lindsey O'Brienさんに伝わり、彼女も興味を持ってくれて取材に来たいという。アメリカでの人脈のつながりが広がった。
New YorkからClevelandへ行く飛行機が3時間半も遅れて、道彦と私がClevelandに着いたのは前日の深夜1時30分。レンタカーなどの手続きを終えて、空港近くのホテルに着き、ベッドにもぐりこんだのは夜中の2時過ぎ。でも当日(6/16)の朝7時には目が覚める。Cleveland西にある空港から、ラッシュアワーで混雑するダウンタウン近くの道路を抜けて、東北方面30分の距離にあるエリー湖畔のWillowickに着いたのは1時間前の9時。部屋の電灯が点いているのが外から見えたが、そのまま通過して時間を潰す。l0時約束だが9:30に再度到着。我々を見かけたJaneが飛び出してくる。Lindaも気がつき、「再会」を喜ぶ。机には当時のアルバム、祖父が贈った緑の縁取りのある茶器が並ぶ。「茶器の淵の緑に合わせて母が周りのイスも緑の帯を加えた」とJaneが母の思い入れを語る。。
住家を何度も建て替えたり、転々と変えるのが普通のアメリカ人なので、同じ家に90年以上も同じ人が住み続けることは例外中の例外。ただ、90年前に見渡せたというエリー湖の風景は、間に家がいくつも出来て、見えなくなっていた。間もなく地元紙News Heraldの記者Linsay O'Brienさんも大きなカメラを持ったMaribethさんと共に現れる。やがてNew YorkとMasachusettsから来たKennedy教授の娘さん2人も到着。更にHistorical SocietyのTaddeoさん夫妻と私が東京を案内したMarcとLana夫妻も合流。それほど大きくない部屋は12人も入って満杯。古いアルバムで話が盛り上がるところをカメラマンが盛んにシャッターを切る。この不思議な出会いに至ったエピソードが次々に出てきて、笑いになる。「日本では輪廻(reincarnation)という考えがまだ残っていて、死後の人たちが現生の人たちをコントロールすることがあると思われているので、この再会も叔父と教授の贈り物かもしれない」と言うと真剣な顔になる。お土産に持っていった帯をLindaがぐるぐる巻きになりながら着て見せる。オビと言う言葉も彼らの口から自然に飛び出す。写真。写真。気がついたらもう11時を回っている。その後の予定もあり、3台の車に分乗して、マスコミの2人を除いて皆でWilloughby のWelcome Centerへ。町の歴史、生活、特徴などが一目で分かるよう展示されている。発明王トーマス・エジソンもこの近くの出身。彼の発明した蓄音機が展示されまだ音が出る。そこでは元市長のDavid Anderson氏も迎えてくれる。23年もWilloughbyの市長を務め、町の景観保存や電線の地下埋蔵などにも努めたという。酸素補給の管を鼻に挿す必要があるような状態なのにわざわざ出てきてくれる。Taddeo さんが予約しておいてくれた表通りのOliver Twistというレストランで昼食。元市長にも僅かなお土産を渡したら店の料理に使えるカードをもらってしまった。
皆でWilloughbyのお墓へ。緑の芝生が一面に敷き詰められた中に、小さな長方形の墓石が無造作に並べられているだけの場所。ほとんどの墓石の表面には、もちろん戒名などはなく、実の姓名の下に誕生と死亡の年が刻まれているだけの単純なもの。ただ、Kennedy教授の実弟のClay氏だけは実名の間に道化の描画が小さく彫られている。彼が舞台俳優になりNewYorkで修業中40代半ばでこの世を去ったのを惜しんだようだ。墓石は個人個人だが、Kennedy家の墓はまとまって一角にあり、昨年亡くなったJennyの墓はその父母の間に割り込む形で白い四角の石が置かれているだけ。これから表面の名前を刻んでもらうのだという。ただ、Kennedy教授の墓はそこにはなくて、彼が亡くなったNew York州のIthacaにあるのだそうだ。「家」が中心の墓地構成ではないので、一つの場所にはとらわれないようだ。墓地内の場所によっては、人型のスペースにまだ芝生が生えていなくて、最近遺体が埋められたことが分かるところもある。火葬せずにそのまま土に返している証拠なのだろう。6月だが梅雨のないアメリカは真夏の太陽が照りつける。
墓地を出る。Historical Societyの人が我々も乗るMoreskyさん夫妻の車に同乗して、ガイド役をしてくれる。かつての田舎町にも大規模スーパーとモールがいたるところに進出し、幼少からこの地で育ったMoreskyさんは昔を懐かしむ。でも、私から見るとまだまだ緑が豊かで、広々とした牧草地に牛馬が草を食む風景は美しくも羨ましい。アメリカで17番目に州に認められたオハイオは、様々な人種や宗教のルツボでもある。三位一体を信じないUnitarian教会が見える。ドイツ人入植者が多かったせいか、原始生活信仰者Amishの社会ももアメリカ最大。この州出身の大統領が8人もいるという。その1人第20代大統領のJames Garfield氏の生誕地近くのMoorelandと呼ばれる豪邸跡が解放されている。今でも走るCleveland鉄道のオーナーでもあった人の遺産で一休み。緑の中にブドウが植えられ、見渡す限り美しい緑一色に広がる大庭園の前には上品な結婚式場がある。でも人影がなく、静寂そのもの。
再度、JaneとLindaの居るLake Houseへ戻り、昔の資料を見せてもらう。伯父のお世話になったJohn C. Kennedy教授は、ほとんど同性同名のJohn F. Kennedy大統領の発案した平和部隊(Peace Corps)の第1回のリーダーとしてフィリピンへ2年間派遣された人だと分かる。20代の若者の部隊を当時50才を超えて引率・指導したので、大きく報道された記事がまだ保存されていた。遺稿集「夕映え」も日本語が多いので、JaneやLindaから質問も多く出て、道彦と私で詳しい解説をする。祖父母や伯父の姉妹が贈ったという当時の日本の写真集や童話集なども、添えられた手紙と共に、まだ丁寧に保存されている。当時クリスマスカードなども船便で交換していたようで、取り出して見せてくれる。
日光が出てきて青空になったので、エリー湖畔までみなで出てみる。水はやや濁っているが、緑の岸辺から水平線まで広がるエリー湖は、湖というより海だ。「昔はここはきれいな浜辺が広がり、みなで降りて水遊びに興じたのよ」とLindaが懐かしそうに言う。湖水の波の浸食で次第に岸辺が削り取られていき、昔岸辺にあった家が、陸の方に移動しなければならなくなったとも言う。今では水面まで断崖のように岸辺がそそり立ち、身を乗り出すと危険なほどだ。90年の歳月は地勢も変える。
その2日後、地元紙News HeraldのO'Brienさんから私たちの出会いが記事になったことをメイルで知らせてきた。ネット上の新聞記事のリンクが貼り付けられていたので、ネット新聞だけかと思っていたが、Taddeoさんが紙面をスキャナーで取り込んだファイルを送ってくれて紙面でも出たことを知った。しかし、当時はClevelandを離れていて、実際の紙面を見る機会はなかった。
我々は伯父がIndiana大学時代を過ごしたインディアナ州Bloomingtonに出かけていた。Clevelandから西南の方角に片道600kmのドライブ。途中オハイオ州の州都コロンバスでColumbus State CollegeやOhio State Universityにも寄る。天気も変りやすく、全面がほとんど見えなくなるような豪雨があるかと思えば、きれいに真っ青の青空の下、見渡す限り緑の畑が広がるような穀倉地帯の中を走ることもある。そんな中で東京、大阪間を超える距離を1日で走る。でも交通混雑がほとんどなく、広い道路を料金を払わずに走れる気楽さもあり、それほどの疲労感はない。
アメリカは個人データに関してかなりのおおらかさがある。古くからの個人に関する膨大なビッグ・データ(American Census)がネットで公開されている。まさかと思いながら、それに伯父の名前を入れてみたら、90年前の日本人なのにアメリカに少し滞在しただけで、何といろいろ出てきた。当時の太平洋航路を走ったサイベリア丸の乗船者名簿もあって、そこに名前が出て来たし、Bloomingtonでの下宿先の主人の名前からその住所まで分かった。そこは324 2nd Street, Bloomington, Indianaとあった。
そこでまずその場所を確認に出かける。GPSが利用できる今の世界では、自動的にカーナビが案内してくれる。薄黄色の板壁の小さな二階建てが木々に囲まれて立っていた。Indiana大学へ歩いても5-6分のところ。車を使えない彼が通学するには申し分ない。90年前の当時そこにはFrank Yelch(70)とClara Yelch(67)という老夫婦が住んでいて、伯父は下宿人として面倒を見てもらったのだが、老夫婦だったため賄いは無理で、食事は外食との約束だったらしい。
大学のキャンパスは広い。多分伯父が通ったであろうPolitical Science関係の校舎はWoodburn Hallという建物だろうと教えられて、行ってみる。日曜日なので誰もいないが、校舎は鍵もかかっていなくて、教室にも出入り自由だ。1939年に建て替えられた旨の銘板があり、伯父の時代の建物ではないが、ほゞ雰囲気は分かる。教室にあるOHP用のスクリーンなどは「新兵器」だろうが、昔からの、肘掛から小さなテーブルが出てくる椅子が3列に並ぶ教室は日本でもよく見かける授業風景を想像させる。
この90年間でかなりキャンパスは大きくなったようだ。ネットではIndiana州の見どころの1つに取り上げられている大学付属の美術館も後で加わったものの1つ。紀元前の遺物から、モネの絵画、日本の縄文式土器から阿弥陀如来、韓国やエジプト文明までが大学のものとして無料で展示され、写真撮影も自由で、これだけでも訪問の価値がありそう。
大学の学生食堂で昼食を取らせてもらう。寿司がある。面白いのは海苔巻なのに、海苔が中の具を巻いているだけで、海苔の外側にご飯が巻きつけられていること。しかもマヨネーズがかかっている。海藻を切り刻んだものなどもあり、かなりの和風趣向。
真夏の太陽の下をダウンタウンに出てみる。市庁舎のまわりでは年に1度のArt Festivalが開催中。屋台のバーベキュ屋が並ぶ一角があり、8ドルで食べ放題というので、行列が出来ている。大通りにはテントの列。室内に飾る絵画、置物、壁掛け、小物など色とりどりの「芸術品」が並ぶ。年1度とあって遠くの州から出張販売に来たテントもある。蝶の羽を並べて売る店もある。
夕方、New Yorkで会ったAbeさんからIndiana大学の国際関係担当、Kathyさんと会わないかとメイルが入る。我々がIndiana大学へ行くことを伝えておいたので、気を利かせて紹介してくれたのだ。彼女に電話してみるが、我々も明日はここを発つことと、彼女も予定が詰まっているので調整できず、あきらめる。しかし、Lake HouseのJaneさんから「我々の出ている新聞を確保したので、もう1度会わないか?」と連絡が入り、電話して最終日の6/22にLake Houseを再訪することを約束する。
再度、1日600キロの老人ドライブで、インディアナ州からオハイオ州Willowick近くまで辿り着き、翌朝Lake HouseでJaneとLindaに再会。我々の訪問が大きく出ている新聞News Heraldをもらう。家庭科の先生だったJaneはランチとデザートのケーキを作って待っていてくれた。クリーブランドの病院で脊髄手術を担当する医師でLindaさんの娘、Jennieさんも同席してくれる。
結局、90年前の伯父の足跡を辿る旅は何だったのか。たった2年間だけではあったが、伯父はアメリカの社会に飛び込み、当時の日本人の夢を実現しようとして亡くなった。しかしそのとき伯父が受けたアメリカ人の親切や友情は記録を通じて生き続け、ふとした偶然が重なり、好意が親切を生んで、国を超えて人を結びつけ、その遠い縁を新しいものにしてくれた。人種、文化、習俗は違っても、人間同志を結びつける絆は同じだと痛感した旅だった。
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