4/23(土)
朝、7マイル・ブリッジがマラソンで通行止めになるというので、少し遅く出る。もう1日この列島のどこかで宿をとろうかと思って、景色のいいところで聞いてみるが、土曜の晩とあっては、どこも満員。それに、海水浴客がほとんどで、海に入ることに興味がない我々には高い。やむを得ず、大陸に1度戻ることにする。大陸に戻ると不思議なほど、道路もガラガラになる。再びFlorida
Cityへ入ると、街道からちょっと入った静かなところにホテル、モテルがいっぱい。より取り見取りだ。中級のBest
Western Hotelに決める。朝食付きで2人で135ドル(14,500円)。
平凡なアメリカの田舎のホテルだが、やはり日本のホテルとどこか違うように感じる。車を自分の部屋の前まで持ってきて、ドアの前で車のトランクを開けて、そのまま荷物を運び込めるので、モテルのようだが、モテルより少し高級感がある。駐車場も緑の芝生がふんだんに敷かれて、低いツツジの赤い花が緑を縁取っている。部屋からの窓も大きなシネマスコープのようなガラスで、駐車場の先の風景もよく見える。玄関を入ったところのロビーも広く、ソファなどもある。外を眺めていると、大きなボートを積んだ台車を牽引した乗用車がホテルに入ってきた。玄関の屋根の高さギリギリで滑り込む。ずっと向こうには、ゴミ収集車が集めるゴミ箱が見えるが、1辺5メートル位ありそうで、大きい。それをクレーンで持ち上げてトラックの上でひっくり返してゴミを集めていく。遠くに国道1号線を走る車が見えるが、音は聞こえてこない。
夕食を取りに車で町へ出てみる。フロントで教わったように3つ目の信号機のところを左折してショッピング・モールへ入ろうとして、気が付いたら前の方に車がいる。日本のときの癖で、左折なので手前のレーンに入ろうとしたのだ。右側通行では、左折のときは左の道路の右レーンに入るのは当然なのだが、気をつけていないと左レーンに入りそうになることがある。相手は止まって、私が方向を変えるのを待っていてくれる。危険は感じないが、相手をびっくりさせて申し訳ないと思う。今回の旅の唯一の失敗だった。
夕食に南国酒家という中華料理店に入った。注文を待つ間、周りを見ていると、日焼けして一日の労働を終えたばかりという感じの白人が、元気のいい黒人の奥さんと3人の子供をつれて入ってきた。土曜の夕食なので、一家で外食のようだ。やがてヴァイキングのコーナーで子供に好きな物をとらせたあとで親もお皿に料理を積み込んで、テーブルに戻る。飲み物のコークの缶を並べたと思ったら、突然一家全員が座って手を合わせてお祈りを始めた。手を下ろすと、静かに黙々と、一斉に食べ始める。元気のいい子供たちも食事は実に整然と静かに済ませた。家庭のようすがしのばれる気がした。反対側のテーブルでも別の一家が夕食中だ。突然3才位の女の子が振り返って、椅子の背もたれ越しに目だけ出して、我々の方をじっと見ている。親は気が付かない。このHomesteadというFloridaの田舎町には日本人はほとんどいないので珍しいらしい。食事中振り返っては、火星人でも見るように、何度もこちらを伺っていた。
こちらの土曜日は日本では日曜日なので、電話をかけてみることにする。ガソリンスタンドで5ドルのテレフォン・カードを買っておいたのを取り出す。外国の(テレ)フォンカードは磁気記録方式ではないので、ホテルの部屋からでも利用可能だ。コレクトコールなどにすると10倍くらいの料金になるので、その国のカードを利用する。念のために使い方を書いておこう。どの国もほとんど同じやり方だが、最初にホテルの部屋から外線に出る番号、例えば9などを押す。次にカード会社のアクセス番号例えば、アメリカのFlorida Starというカードなら、表面に書かれた1-800-690-1039を続けて押すと、PIN(Personal
Identification Number) Code[暗証番号]を入力してくれと言って来るので、カード固有の番号(硬貨のフチなどでこすり落としてカードから現れる番号)を押す。するとカードの残り利用可能時間を言って「どうぞ」と機械音声が入るので、まずアメリカの国から抜ける番号011を押し、日本の国に入る番号81を入れる。この時点で既に日本の国内線に入っているので、次に例えば東京ならば、最初の外線番号03の0を省いて残りの番号をそのまま続けて押すだけでいい。公衆電話からならば、受話器をとって、コインを入れないですぐアクセス番号を押すことになるが、ボタンの接触が悪い機械も結構あるので、接触音を確認しながら押す必要がある。この方式だと5ドルで1時間くらいは日本と通話できる感じだ。一度使い始めたカードは3ヶ月のうちに使ってしまわなければならないので、次回の海外旅行に残りを使うことは難しい場合も多いと思う。だから、高額のカードより、5ドル・カードが便利だ。
4/24(日)
フロリダ州の南の4分の1位を切り取るように、国道41号線が湿地帯の中を貫く。それに沿って東のFlorida Cityという町から西海岸のネイプルズ(Naples)へ向かう。41号線の両側には人家もほとんど見当たらず、山があるわけでもない。最初は道路のすぐ横に河が走っているのかと思った。しかし水は動きがないし、所々に水門がある。実際は河のように細長い運河のようだ。両側にマングローブが水中から出ている林があり、それを切り開くようにして、国道が続く。かなり進んでも、店や町が現れる気配はなく、ガソリンスタンド(gas station)も全く見当たらない。ここも、エバーグレイド国立公園の内部になるらしい。更にしばらく行くと、国立公園のビジター・センターがあったので入ってみる。水路が仕切られていて、ワニや白サギ(egret)を囲ってある。その一角を眺めていると、アメリカ人が話しかけてきた。我々が目指すネイプルズから来たというコロンビア系の夫婦オソリオ(Leonor Osorio)さんとサッカー少年の息子2人の4人家族だ。日曜なので、マイアミまで日帰りドライブでコロンビア料理を食べに行くという。ネイプルズの住人だったので、その町に安くて良いホテルはないかと聞いてみた。いくつかあげてくれたが、Vanderbilt Innというのがいいと言う。お互いに写真をとりあって、今夜決めたホテルから電話するということで分かれた。
道路わきに、Air
Boatと書かれた看板が目に付く。このあたりは沼地なので、水深が浅く、船にスクリューが取り付けられないので、空中で大きなプロペラを回して進むボートが観光客を運ぶ。水辺にはフラミンゴのように足の長い白サギが、首を振りながらゆっくり歩を進め、突然すばやく口ばしを水中に突っ込んで魚を捕らえる。飲み込まれた魚はサギの長い首をふくらませながら胃に降りていく。
やがて静かなネイプルズ(Naples)に着く。Naplesと書くとヨーロッパではナポリになる。風光明媚な海岸の町なので同じ名前をつけたのだろうか? 通りにはヤシの木の間に、アーチ型の窓のあるベランダ付きの白い3階建ての優雅な建物が並ぶ。マイアミがフロリダ半島の東海岸の避寒地だとしたら、西海岸のその対称的な位置にある太陽の町だ。マイアミほど賑わっていないが、老後を温暖な土地でゆっくり過ごす人が殺到するようで、マンション(condominium)の値段も最低3,000万円、1戸建てだと1億円以上だ。町の中心にある野外ステージでは老人がエレキの演奏をして、見ている人もほとんどが老人。浜辺に行っても、年配者が多い。老人が多いせいか、ニューヨークにあるMacyデパートなどが、ここにもある。屋根のある中央の広いスペースには、トヨタの新車が1台、値札をつけて置かれて人気を集めている。観光案内所の場所を聞くと、2マイル先へ移転したという。そこまで行ってみると、閉館していて、火木土しか開かないと掲示が出ている。老人の避寒地では観光案内の必要はないのだろうか。
とにかくオソリオさんが推薦したホテルを探してみることにする。海岸のそれらしいところに15階位の大きなビルがあり、その横にVanderbilt Innという看板があった。これだと思ったら、その横の目立たない2階建ての長い建物だった。でも広い駐車場がいっぱいでなかなか人気のあるホテルだ。海岸べりで海も見えるので、そこに決めた。はるばる日本から来たことを考慮してくれたのか、一番海に近い部屋を割り当ててくれた。ここは海岸なので一部屋$135(\14,500)。2階の部屋から見ると、角度の関係で海岸がほとんど見えず、その先の海だけが見えて、波が目の前に迫ってくるのが怖いくらいだ。アメリカが地球温暖化に無関心で、南極の氷が解けたら、最初に海の下に沈むのはこのホテルかな、などと考えてしまう。
4月だというのに、日曜のせいか、この海岸も日本の8月の賑わいだ。ただ、風があって、波が高いので、サーフィン以外で海に入っている人は少ない。海水着に着替えて、浜辺へ出てみる。真っ白な砂浜と汚染されていないきれいな海だ。ずっと向こうまで、浜辺に沿ってマンションが林立している。風があっても日差しが強いので寒くはない。でも砂は生暖かく、砂風呂にはならない。上の方ではカモメが風に乗って心地よさそうに旋回する。小さい子供連れが集まって砂遊びをしたり、ソフトボールの投球練習をしている父子もいる。木の支柱にワラ屋根という大型パラソル(?)、写真用に超デブの老夫婦のユーモラスな人形などが置いてあるのはアメリカ的。朝になると、人が来ないうちに、トラクターがゴミをかき集め、浜辺にきれいな箒のスジを付けていく。でも貝は踏み潰されてコナゴナになる。朝は鳥が舞う中をジョギングする人、波打ち際をサイクリングする人など以外は誰も居ない。日中の混雑がウソのようだ。気持ちのいいホテルを紹介してくれたので、夜オソリオさんに電話をしてお礼を言う。
4/25(月)
今日は更に北上してセント・ピ−ターズバーグ(St. Petersburg)に向かう。広い緑の中央分離帯のある75号線は片側3車線で快適だ。最高速度70マイル(112キロ)とある標識の下に最低速度40マイル(64キロ)とある。75マイルくらいを保ちながら、遅ければ安全だということにはならない、とスピード運転を正当化したくなる。快晴で、すがすがしい気分で進んでいたのに、突然この広い道路で渋滞が起こった。ときどきは完全に停止してしまう。こんなのはアメリカでは初めてだ。仕方がないから、携帯式の音楽メモリーiPodを出してきて聞きながら時間をつぶす。約30分もノロノロが続いたころ、見ると道路わきに巨大な箱のトラックが横転していた。こんなに整備された道路でも事故が起こるのだ…。そこを通過すると、渋滞がウソだったように、いつものスピード運転に戻った。
渋滞で時間が経過して、気が付いたら12時だ。近くにSeven-Elevenが見える。アメリカのセブン・イレブンはガソリンスタンドになっていることが多く、しかも安い。早速セルフで給油して、中に入ると、コーヒーのサーバーのところに紅茶もある。紅茶好きの我々はすぐに飛びつく。セルフ・サービスで大きな紙コップが$1.29。ついでにサンドイッチや果物、ジュースなどを買って近くで昼食を済ませる。
セント・ピーターズバーグはタンパ湾の対岸にある。プロ野球の合宿場所で有名なタンパは、タンパ湾を東京湾に例えれば、千葉の位置になる。今我々は木更津の位置にいて、東京湾アクアラインで言えば川崎の位置になるセント・ピーターズバーグに渡ろうとしている。この湾に掛かっているSunshine Skyway Bridgeは全長6.5キロだからアクアラインの海上の橋の長さくらいだが、橋の道路の高さは海抜60mで、アクアラインの27mの2倍にもなる。実際、1980年に、古い橋に貨物船が衝突して、橋が300mにわたって落下し、上にいた37人が即死した。だから、新しい橋はコンクリート製のつり橋になっていて、87,000トンの船が10ノット(20キロ)で衝突しても壊れないように作られているそうだ。しかし、一番の違いは東京湾アクアラインは片道3,000円もする通行料が、こちらはタダであることだろう。しかも途中の山になった橋の頂上から海や半島を見下ろしながら下るときの気分は格別だ。
夜、テレビが、日本の尼崎で電車の衝突事故があったと簡単に伝える。2人死亡で、怪我が50人程度だという。10秒程度だ。アメリカで日本の交通事故などを伝えるのを初めて聞いた。大阪に居る息子夫婦は大丈夫かな。
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セント・ピーターズバーグには曲がった時計で有名なサルバドール・ダリの世界一の美術館があると聞いていたので、探してみる。カーナビには出てこないし、場所も分らないので、聞きながら進むが、迷ってしまう。ショッピングセンターの駐車場に居た黒人に聞いたら、「連れて行ってやるから、俺の車のあとについて来い」という。彼のジープのようなSUVについて車を走らせると、5分くらいで着いた。お礼に、あのうまいグレープフルーツを1つ渡したら、戸惑っていたが、まもなく笑顔になりサンキューと言って消えた。月曜日だったが開館していた。
ダリと言えば、時計の不思議な絵しか思い出せない私だったが、この美術館を見てかなり印象が変わった。まず、若いころの絵はまるで印象派の絵のようで、実に美しい。その後彼がフロイトの影響を強く受けたあとで、人間の性的なものを複雑に入れ込んだ面白い作品を描くようになったらしい。その中でおもしろかったのが、裸の女性が後ろ向きに窓から地中海を眺めているように見える絵なのに、ちょっと遠くから見ると全体がリンカーン大統領の肖像画になるという作品だった。だまし絵というより、何か哲学的な感じがする。第二次大戦から逃れるためアメリカに移ってきたのだが、絵画、彫刻、リソグラフなどだけでなく、詩や哲学にも興味を示した。更にシャネルの衣装デザイン引き受けたり、ヒッチコックと映画を製作したこともあるそうだ。
外に出てみると、一方の端が妙にひねくれた鉄製のベンチがあり、座るとすぐ横に曲がった時計がくっついていた。遊歩道のすぐ向こうは湾になっている。真っ青の海に帆を下ろした無数の白いヨットがマストと綱だけを残して、海面にきれいな影を写して停泊している。あたりは一面緑の芝生が敷き詰められていて、窓のない白い低い美術館の壁には巨大なダリのサインが刻み込まれている。
今夜はこの近くのモテルに泊まることに決める。いろいろあるがBayway Innというのに入ってみる。プール(共同)、TV,冷蔵庫、冷房付きでツイン一部屋$55(\5,900)だ。
4/26(火)
今日は一旦オーランドに戻って、更に東北方向に4号線のフリーウェイを東海岸のデイトナビーチ(Daytona Beach)に向かう。さらにその北に進み、昔のプランテーションの跡を訪ねようと思う。国道4号線は幹線なので車が多いが、Daytona BeachからBunnellという田舎町への道はほとんど車の来ない道だ。視野の両側には背の高いヒノキの森がだんだん遠くになるにつれて小さくなって前方に続く。そしてずっと先の1点で結合する。それは視野の左右から伸びた黒い三角形のように見える。下の道路もグレイの先細り三角形になり、上からは空が青い三角形を作ると、前景がきれいな透視図のように見える。
インターネットで見つけたバロウ・プランテーション(Bulow Plantation Ruins)へ行きたかったのだが、これもカーナビには出てこないし、きちんとした住所も分らない状態だったので、聞きまわるしかなかった。でも、土地の人にはかなり有名で、尋ねた人のすべてが知ってはいた。が、かなり辺鄙で複雑にいりこんだ山の中だったので、たどり着くのにかなり苦労した。曲がり角に立つ矢印の標識の先に2本の道路があり、一方は細い砂利道で一方は舗装道だった。舗装を選んだら、個人の農家に入ってしまった。聞くと、皆が間違えて入ってくるという。ならば、もっとはっきり書けばいいと思う。アメリカではめったにない細い砂利道をホコリをもうもうと立てながらかなり奥まで進むと、やっとそれらしい場所にたどり着いた。途中に「維持費に3ドル申し受ける」と書かれた小さな看板があったが、誰もいないしどこに出すのか分らないまま山へ入ったら、どこからかレインジャーのような人が現れた。「3ドルですか」というと「そうだ」と言いながら、少しガイドをしてくれた。そのうち “Have
a great day!”と言って消えた。
1820年ころBulowという人がこの付近で、奴隷を使ってこのあたりを開墾し、砂糖キビ、綿花、米、藍などの農園を経営し始めた。更に製糖所を作って砂糖を生産し、近くのSt. Augustineなどへ送ったらしい。蒸気機関を動かすための水を汲んだ井戸が残されている。砂糖キビからジュースを絞りとるのにモーターではなく、蒸気機関を使ったようだ。ボイラーの上の煙突はレンガ作りで残っている。ちょっと見て、ギリシャのオリンピア遺跡を思い出した。工場の面影はほとんどなく、土台以外は数本の柱と崩れかかった壁の一部、それにやや大きい煙突だけだからだ。結局1836年にインディアン強制移送計画に怒ったインディアンの襲撃にあって完全に破壊され、復旧不可能になったまま残されている。傍の小屋には砂糖キビをプレスする機械の現物や、当時のインディアン、セミノール族との攻防を示すものが展示されている。アメリカでは歴史を感じさせてくれるものがあまりないので、これは過去を実感できる数少ない場所だ。
今日はデイトナ・ビーチまで戻って、宿を探す。インターネットで見つけて、予約はしなかったLilian Place B&B(Bed and Breakfast)を訪ねてみることにする。カーナビのおかげで、すぐに見つかる。海岸近くの木造3階建だ。白い柱の枠組みの中に、黄色の横板の壁に囲まれ、屋根の上に北大のような時計台がそびえる。もともと島になっていたところに橋が掛かった場所だ。入口で主人らしい人が仕事仲間と話をしている。車に乗ったまま話しかけると、1つだけ部屋を用意してあるという。早速部屋を見せてもらう。120年前に建てられた骨董品的な建築。確かに入ったとたん伝統の重みが迫ってくるような作りだ。玄関の先のアーチの入口を入ると階段の手すりには細かい彫刻が施され、階段横の壁には一面だけで13枚もの額入りの絵が掛けられている。黒檀の調度品の上に置かれた電灯の笠のクラシックな装飾、絨毯の模様も普通じゃない。
2階に連れて行かれ、我々の部屋に案内される。内装は改装したそうだが、明るい緑がかった青の壁には大きな油絵がかかり、フレンチ・ウィンドウにかかるレースのカーテン越しに、庭の木々の間から、海が広く望まれる。青い壁に合わせて、シーツから枕カバーまで同じ青一色だ。トイレはドアがついた別室になっているが、驚いた事に、大きな浴槽が寝室のベッドのそばに置かれている。広い深めの白い浴槽は金色の金属性の4本足によって木の床で支えられている。浴槽のフチを使って金属の棚が渡されていて、石鹸やフェイス・タオルなどがきれいに並べられている。蛇口やシャワーの握りも陶器で出来ている。シャワーカーテンなどは一切ないので、水がこぼれたら拭くように、布が置かれているが、うまく床を濡らさずに使えるか自信を持てない。大変なところへ来たものだ。でもおもしろいから泊まってみることにした。ここは朝食付、2人で$135(\14,500)。アメリカ人にとってもここは珍しいところのようで、部屋に置いてあるお客の感想ノートには、「2人の特別な思い出にここを選んだ」とか「結婚10年目のボーナスとして来た」とか書かれている。
「全く自分の家に居るように、自由にどこでも、何でも使ってくつろいでくれ」というので、家内はピアノでトルコ行進曲を弾き始めた。チェスボードにも既にコマが並べられて、いつでも出来るようになっている。暖炉の台の上には、恋人と一緒の軍服姿の息子の写真、今は亡き奥さんがかわいい子供ふたりといる若いころの写真がある。ソファのところには本棚があり、アメリカが13州だったころの大きな国旗が椅子に掛けられている。主人はちょっと外出中で我々が家を独占している。
ここの主人Mike
Riccitielloは3ヶ月前に奥さんのSuzanneをガンで亡くしたという。気持ちはまだ落着かないようで、2階に3部屋ある客間は、我々の泊まることにした1室以外はまだ整頓されていない。だから、今晩の客は我々だけだ。1人息子は陸軍士官学校(West Point)の士官候補生で、Mikeは明日会いに行くことになっている。敷地内に別棟があり、そこには娘夫婦が住んでいるらしい。広い庭には大木が何本もあり、緑の芝生が一面に敷かれた上にはハンモック。ランやハイビスカスが咲く一方で、前庭には果樹園。奥さんが亡くなってからMikeは一人で全てをやっている。朝食の用意から、ベッドメイキング、掃除、洗濯、庭の手入れ、家の修理、客の世話、パソコンでの経理、電話番などまで本当に忙しそうだ。日本でホームページに書きたいと言ったら、料理をしているところのビデオを撮らせてくれて、実に手際よく、ソーセージやホットケーキを作ってくれた。3階の上にそびえる時計台からは30分おきに鐘がなる。もう120年も鳴り続けているそうだ。
帰国して驚いた。念のためホームページを調べていて、デイトナ・ビーチの電子新聞の記事が目にとまった。Lilian Placeというのはこの町の最古の建物で、幽霊屋敷としても町で有名だというのだ。実際に、2年前、「赤外線カメラと超高感度のマイクを備えた『幽霊調査団(?)』が夕方6時から朝の6時まで徹夜で調査したら、それらしい反応があった」とある。右の写真はその時のもので、この部屋に我々も泊まった。亡くなった奥さんが生きていたころ、「夜幽霊の歌声が聞こえたことがある」と証言しているし、Mikeも「客寄せに言うわけではないが、この家には独特の何かがある感じがする」という。実際奥さんが亡くなった今、彼はどんな思いで彼女の亡霊と暮らしているのであろうか?
もう1つの発見は、アメリカの南北戦争直後の大作家スティーブン・クレイン(Stephen Crane)が100年前に寝たベッドと同じベッドに私が寝たらしいということだ。彼は100年くらい前に、特派員としてキューバに行く途中で船が沈没して30時間ほど海上に漂っていたことがある。その直後、彼はここLilian Placeのこの部屋で何日か過ごし、有名な短編“The Open Boat”を書くことを思いついたらしい。人が違うと、インスピレーションの受け方がこうも違うものかと思い知らされた次第だ。
4/27(水)
明日早朝にはオーランド空港から帰国することになるので、事実上今日が今回のアメリカ旅行最後の日である。Mikeが9時に仕事で出るというので、8時に朝食を済ませた。彼が昨日薦めてくれたセント・オーガスチン(St. Augustine)が北方1時間くらいのところにあるというので、行ってみようということになる。アメリカ最古の町なので、最古の家などがあるという。何しろ清教徒(Pilgrim Fathers)たちがプリモスに上陸した1620年より55年も前に、スペイン人のPedro Menendez de Avilesの軍団がここに入植していたといから、アメリカとしては最古だ。やはり、寒い北のプリモス(Plymouth)などよりも、常夏のフロリダは植民しやすかったに違いない。
しかしそこに現存する最古の家は1650年ころのものだ。それでも350年以上前に建てられた家がまだ立っていて、公開されている古家は中には人が歩き回っているのだからすごい。大学で歴史を専攻したというボランティアの老婦人たちが熱心にガイド役をつとめる。最初にここに来て要塞を築いたのはスペイン人だったが、1763年にはイギリス人が乗っ取り、3000人居たスペイン人を全て追い出した。今公開されているこの家はイギリスのジョゼフ・ピーベット少佐が買って、模様替えをしてイギリス人好みに変えたようだ。天井などはペンキがはげて木材も朽ちかかっているが、壁や床は海岸の貝を原料にしたcoquinaという材料から出来ているそうで、まだしっかりしている。ガイドはそのcoquinaの破片を皆に回して感触を確かめさせてくれる。台所は別棟で庭の隅にあるが、パンを焼く石造りの釜は鉄のフタがついていて、オーブンのようだ。大きなお皿やカメ、酒瓶なども現存している。水をろ過する装置もうまく考えてある。
明日は4時起きで出発の準備をしなければならないので、早くオーランドへ戻ることにする。途中で、すごいスコールに会う。ワイパーを最速にしても前方がよく見えない。特に大型トラックの横や後ろについた場合は滝のような水を絶えずかけ続けられる。それでも皆60マイル(96キロ)で走り続ける。しかしポンコツ車はこの雨では走れないようで、路肩の草地に停まっている車が見られる。我々もフリーウェイを一旦下りて少し休んでから走り続けたが、30分くらいでまた青空の日差しに戻った。この10日間で、最初で最後の豪雨だった。車はすっかり洗われて、付いていた虫の死骸などがきれいになくなった。明日は借りたときのピカピカで車を返却できる。カーナビが最後の宿、オーランド空港から4マイルのLa Quinta Inn $58(\6,200)に連れて行ってくれる。最後まで読んでいただきお疲れ様でした。
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