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デルフィの老人があるとき言ったそうである。「地球は宇宙の中心。ギリシャは地球の心臓。デルフィはギリシャの中心。つまり地球のヘソである。わしはデルフィの長、すなわちわしが宇宙の中心なのである」と。そのデルフィの神殿に一番近いところに宿を取った。ホテルの部屋のベランダに出てみて驚いた。ちょっと大げさに言えば、神代の世界だ。目の前に立ちはだかるように半円形の巨大な岩山がそびえる。山肌一面を黒味がかった低い潅木が何とかおおっているが、頂上近くや中腹は灰色の地肌が露出している。目を横にそらすと、幾重にも山並みが並び、その真ん中が深い渓谷になっている。ベランダの下は切り立った岩盤が数百メートルも落ち込んでいて、目の前の岩山との間に深い渓谷を作り、先ほどの渓谷とつながる。さらに目を動かすと、その渓谷がそのまま遠くまで続き、青く霞む湾につながっていることが分かる。そして、その河が湾に注ぐあたりには小さな集落のようなものがかすかに見える。目の下に広がる渓谷には川らしい白い長い筋が走り、橋のような区切りが小さく見えるが、水が流れているかどうかわからない。文字通り180度の視界の中に入るものは、山の連なり、渓谷、海、空だけで、人影はもちろん、人工的なものはほとんど何も目に入らない。しかも高山を登りつめたときのように、ほとんどすべてが眼下に広がり、自分はその頂点に居るような気分になる。爽やかな微風がほうをなぜて、うっとりとさせてくれる。かすかに鳥の鳴き声だけが静けさを破るだけだ。こんなところにじっとしていると、天上からこの世界を眺めているような気分になり、最初に引用した老人でなくても、自分が宇宙の中心で、下に広がる山々や海を自由に動かす神話の世界が現実のように思えて、その神になったような錯覚に陥る。「ずっと昔からある」と言うときに英語でas old as hillsというが、この山並みが続く浮世離れした景色に接する特権は、この数千年、いやそれ以上の昔から、この地への巡礼者が味わった感動なのだろう。しかしこれだけのものを含んでも、飛び込みで入ったこの崖っぷちのヴーザス(Vouzas)ホテルの料金は、2人で朝食つき88ユーロ(12,000円)であった。

実際、この国は古い。極端に言えば、国中どこを掘っても遺跡が出てきそうだ。どこかの国のように、自分で作った偽の土器のかけらを埋めて自分で掘り出すなんてことを考えるのなら、ここへ来て「本物」の発掘に力を貸せばお互いにどんなに有益だろう。実際、次々に出てくる遺物に圧倒されてどうしていいか分からず、困り果てている感じがある。デルフィの遺跡入り口へ通じる小道の両側には、掘り出された遺跡が、数十メートルにわたって野ざらしのまま無造作に放置されている。わりに小さな頭像などは、新しく出来た収蔵館に少し納められているが、ミロのビーナスよりも大きい大理石の女神像の胴体部分だけが、こまかい外衣のヒダまで、見事に浮き彫りされて、松の木の根元に3体も立っている。分厚い石材で作った棺がふたを半分開けたまま野ざらしで置かれていて、外面は風化しかかっている。来年のオリンピックに間に合わせるためか、小道の脇でモザイクを若者が懸命に修復している。その他柱頭や台座の数々が雨ざらしになっているが、どれも大理石のようで、細かい浮き彫りや彫像のない平面を探すのは大変だ。古代の世界では、実用だけで、美的感動を与えないようなものを創るのは罪悪だったのではなかろうか。それとも常に大きな神代に対する敬虔な思いが彼らの心に常駐していたものの発露なのだろうか。

ギリシャの遺跡発掘に関しては、自分の全財産を投入して数々の遺跡を発見したシュリーマンの貢献が必ず話題になる。彼はペロポネソス半島の中部にあるミケーネ遺跡も発掘して、古代ミケーネ王の墓を探し出し、有名な黄金に輝くデスマスクを発見した。「イリアス」を史実だと実証しようとしていたシュリーマンは、この仮面をトロイア戦争のギリシャ軍の総司令官であったアガメムノンのものだと信じて「私はアガメムノンの顔を見つめた」という電報をギリシャの王に打ったそうだ。彼がその快挙を成し遂げたミケーネの地に立って、私もまわりを見渡した。でも、今では、随所にオリーブの緑の斑点が散らばる荒涼とした地肌を見せた山並みが広がっているだけの場所だ。その一角にシュリーマンが発掘した石垣に囲まれた部分が展望できる。こんな場所にあの見事な金の仮面が埋まっているなどと誰が想像するだろうか。

少し手前にあるミケーネ王の墓は、「アトレウスの宝庫」とも呼ばれている。写真はドームの内側だが、漆喰を一切使わないで、石を積み上げるだけで作った大きなドームで、中で声を出すと反響が不気味に漂う。これは彼が呪われた王だったからだろうか。アトレウスの妃は弟のデュエステスに誘惑される。それを知ったアトレウスは、弟の2人の息子を殺して、その肉を弟と妃に食べさせる。そのあとで、切り取られた息子の頭を弟たちに見せて、彼らが食べたものが何だったのかを教える。このときの神の呪いを受けて、アトレウスの血を引くアガメムノンも不慮の死を遂げる。並ではないこの世界のニクニクしさが、彼の墓に封印されて、不気味な反響の中に漂っているようにも思える。

ペロポネソス半島の中部にあるスパルタから、美しい並木道を10分も行くと、ビザンチン帝国時代の政治・文化の中心地ミストラに出る。その裏山の中腹から頂上にかけて続く遺跡が印象的だ。すぐ下の現在のミストラの町からは、礼拝の声が風に乗って響き渡る。はるか遠くにはスパルタの町を見渡す広い平野が眼下に展開する。「ファウスト」の中でファウストの望みが叶えられてトロイアのヘレネと会う場所を、ゲーテはこの場所に設定している。ゲーテも200年くらい前に、この同じ空気を吸って、同じ感動を覚えたのだろう。

中腹にある入り口から入ると、もみの木とオリーブがしがみついている岩肌から浮き出たように城壁がそびえる。壮大な壁はところどころ丸みを帯びた円筒形の一部がはみ出したようにせり出し、壁の上は巨大な王冠のように凹凸状に切り込まれている。手前の狭いトンネルのような城門を入ると、修道院があった。すぐ上には庭のようなところもあり、黒光りのする毛並みのやせた犬が落ちたオレンジを食べている。その近くでは耳の大きいロバが優しい眼をこちらに向けた。ここでは何人か尼僧が生活しているらしい。こじんまりとした教会もあり、鐘楼の鐘からは細い紐がたれている。道はずっと登って頂上のお城まで続いている。とてもこの暑さの中をあの高さまで登るのはきついというわけで、一旦外に出て、車で頂上の城郭入り口へとまわる

朝まだ早いせいか、観光客はまだほとんどいない。フランス人の若い女性が1人で大きな日本製の一眼レフカメラをもって、「こっちの道へ行けば城址へいくの?」と聞く。「我々も自信がないが、多分そうだろう」と答えて、登る。彼女のペースは早い。瞬く間に見えなくなった。我々は年に相応のペースで、人一人がやっと通れるくらいの石畳の道を強い日差しを浴びながらゆっくり進む。ときどき木の影に入るとホッとする。崖っぷちの道は、高さ30cmくらいの石組のガードがあり、その上をトカゲがすばやく走る。爬虫類に弱い家内に言うと怖がるので、黙っている。出来て700年以上の経っているので、城壁も角はとれて、壁面も細かいものは落とされて、凸凹になっていて、石がすっかり浮き出ている。しかし、雨風が当たらないところでは風化はないので、城門の脇を下ったところにある僧院のドームの裏側などは、フレスコ画こそ消えているが、石組みの自然な模様はきれいに保存されている。その他、教会のrefectoryと呼ばれる食堂などもかなり大きく、そのまわりの建物の廃墟になった壁が延々と複雑に続くのをみると、ビザンチン時代の、この高地の文化の繁栄振りが想像できる。

遺跡とは違うかもしれないが、修道院をいくつか訪ねた。特にデルフィに向かう途中から山の奥へ入ったところにある「オシオス・ルカス修道院」は印象に残るところである。オリーブがまだらに生えている丸い山並みの間の道をかなり進んだとき、木々の間に茶色のドームが見えてきた。鐘楼であった。山間のオリーブだけがずっと遠くまで広がる荒涼とした場所に1000年も前に建てられた茶色と白の石造りの建物がいくつかまとまって建っていて、回廊でつながっていた。山の向こうから吹き寄せる風はかなり強い。周りの山々を望む、巨木の植えられた庭には木陰にベンチとテーブルがいくつか置かれ、黒い帽子と黒いガウンに黒いひげを生やした修道士が巡礼者たちとテーブルのまわりで何か話し合っている。奥の礼拝堂が丁度空いている時間なので、入れてもらう。どこから来たのかギリシャ人の巡礼者がまわりにいっぱいあふれている。列を作るようにして、入り口にむかっていたら、我々だけ横から呼び出された。小さなボックスがあり、入場料1人3ユーロ(410円)出しなさいという。でも、ギリシャ人の巡礼者には要求しない。彼らは黙々と進んでいく。礼拝堂の内部正面には胸の高さくらいのところに、キリストの小さなイコンが掛けられている。巡礼者たちは、その前でひざまずき、一人ずつイコンに口づけをする。小さなイコンなので、沢山の人が同じようなところに口づけをして行くのだが、覚めた目で見ると、ちょっと衛生的に気になる。我々は観光客ということで、それは差し控えさせてもらった。彼らの表情は恍惚状態で、神聖な場所で神と対話ができて大満足のようなので、余計なことをいうのは失礼千万なことだとは思うが…..。宗教生活の違いを痛感する。

ゆっくり好きのギリシャ人も、来年のオリンピックを控えて、あわて始めているようだ。競技場の改修はもちろん、国中の遺跡で修復工事が行われていると言ってもいいくらいだ。ギリシャの国の玄関口となるヴェニゼロス国際空港はつい2年前に新設されたもので、まだ空港周辺の道路も建設中で、いたるところで交通混雑を引き起こしている。しかし、この新空港は丁度東京と成田くらいの方向と位置関係にあり、都心まで車でも1時間はかかる。オリンピックが近づくにつれて空港を利用する人も急増するとともに、早朝や深夜の便も増えるはずなので、空港付近のホテルを必要とする人も増えるはずだが、空港前にはSofitelという高級ホテルが、たった1つしかなく、旅の本ではツインで260ユーロ(35,800)という値段だ。

実は、我々も帰りの便が、朝7時発になってしまい、レンタカーの返還の手続きなどもあり、その2時間前の午前5時には空港に入りたいと思って、近くにホテルを探したが、手ごろなホテルがなくて大変だった。実際、最初は空港前のSofitel Hotelに行って、値段を交渉してみたが2人で216ユーロ(29,800)までしか下げないので、「そんな余裕はない」といって断った。空港のホテル斡旋カウンターで、「少し空港から離れててもいいから、安いホテルはないか」といったら、「30分くらいドライブすればある」という。空港から南西の方向に進んだ海岸沿いのGlyfadaというビーチに近い国道沿いのホテルを紹介され、ここなら95ーロ(13,100)だという。でも、ここは国道沿いでうるさい上に、途中が道路工事だらけなので、時間がかかりすぎるので現実的ではなかった。そこで、他を探していたら、空港近くの道路わきの看板に”Hotel Pantheon”というのが目に入り、行ってみた。小ぎれいな民宿といった感じで部屋数が5つくらいしかなく、あいにく満室であった。出てきた若い女主人は気の毒そうに、さらに10キロ先のVAR Hotelというホテルを紹介してくれた。これは、探すのにちょっと手間取ったが、やはり空港から南西の方角でLagonissiという海沿いの町にある20室以上あるホテルだった。一見モテル風だが、イギリス風のカラフルな花園に囲まれた海の見えるホテルで、朝食つき2人65ユーロ(8,900)であった。主人も英国に留学したことのあるオリンピア出身の人で感じのいい紳士であった。結局、そこに泊まったが、前の日に会計は済ませて門の開け方を習っておいて、鍵をドアに残したまま朝食なしで4時半に飛び出すことにした。

このホテルに来る途中、丁度中程のところにKalyviaという町があり、そこでたまたま給油をした。ガソリンスダンドの若い男に、何となく「この辺にホテルはないかな」と言ったら、すぐ目の前のタベルナを指して、あそこがそうだという。早速、そこへ行き、「ホテルは?」と尋ねたが、ちょっと時間が早く、まだ管理者が来ていないという。少し時間をおいて再度行ってみた。今度は若い男がいて、何と、我々が行こうとしているホテルと同じ名前を言い、「VAR ホテルというのが近くにあるからそこへ行け」という。「ここがホテルだと聞いてきたが….」と言っても、「ちがう」と言う。タベルナの2階はホテルになっていることがあると聞いていたし、造りから言っても、たぶんそこもホテルのようだった。しかし、それはギリシャ人用の安ホテルで、我々外国人向きではないということを「ホテルではない」という言葉で表したようだった。実際、あまり、きれいな建物ではないので、半分不安はあった。そのうち彼がVARホテルに電話までしてくれて、地図も丁寧に描いてくれたので、そのままそこへ行くのが自然な状況になり、それで良かったと思うのだが、ここでも、「外人」扱いをされた思いが残った。

このタベルナの管理者を待つ間、5キロ離れたMarkopouloという町に行ってみた。空港が遠くに望める小さな町だったが、ここにも「外人」用のホテルはなかった。でも、丘の上に古びた大きな風車小屋があり、そこから見える近くの丘陵地帯にマンション風のものが数多く建築中であった。あたりに人がいないので、尋ねることが出来なかったが、これが新空港からの「外人」のための施設になるのかもしれないと思った。とにかく、成田がそうだったように、田舎の村に急にとんでもないものが出来て、変な「外人」がはき出され、静かな田舎町の平和はかなり乱されているようだ。でも、合理的で、金のない(?)若い人たちは、空港内に寝袋を持ち込んで、ベンチの脇あたりに自分で「無料宿泊場所」を作っている人もかなりある。このような状況が続けば、雨の降らない、暖かいギリシャでは、オリンピックのころ、空港周辺や都心の公園は「寝袋族」の溜まり場になるだろう。しかしそれがあまり不自然には感じられない。自然とともに生きていくのが、この神の国のふさわしい生き方のようだから。

今度の旅はスイス航空を使った。スイスのチューリッヒまでだと、往復で78,000円という航空券を見つけたからだ。しかし、そこからギリシャのアテネまでの往復が14,000かかった。今のところギリシャはヨーロッパの田舎ということで、直行便がないので、仕方がないのかもしれない。チューリッヒまで12時間くらい乗りっぱなしで、疲れるので、休養を兼ねてスイスで2泊することにした。しかし、インターネットで探しても安くてよさそうなホテルを見つけるのは至難の業だ。ネットで時間をかけて探して、まあまあ妥協できるかなと思ったのが、Atlantis Guesthouse HotelというSheraton Hotelに付属した別館だった。行ってみて驚いた。Sheraton Hotelの前に広がる芝生の庭園の下に地下歩道のトンネルを掘って、庭の外にある、遥かかなたの4階建てのビルと連結し、本館付近の景観を全く損ねないままで、客室を増やしていた。しかし、そこは寝室だけで、朝食やフロントへの用事などを行うには、その長い上り坂のトンネルを息を切らしながら「準備運動」をしなければならないように作られていた。しかし、宣伝文句には「豪華ホテルの施設がそのまま使える」とだけあり、この「準備運動」のことには一切触れられてなかった。しかしこれでも朝食つき1泊2人で123ユーロ(17,000)であった。

しかし、本館の脇にはまだ充分スペースがあり、その追加のビルを増築できると思われるスペースは充分あるのに、たぶん今のゆとりある空間を壊さないために、視界に入らない「辺地」に地下トンネルの別館を建てるというのは日本では考えられない発想だろう。しかし、ここに着いたときは、この別館と本館の位置関係が分からなかった。翌日の朝食後に庭をかなり歩き回っていたとき、たまたま出会った、付近のスイス人に “Guten Morgen!”と声をかけてみたら、親切にいろいろ状況を教えてくれたのだ。写真の緑はホテルの芝生で、電車が見える所は駅、その右のビルが別館。

そのとき彼はホテルの大きな庭の向こうに見える小さな電車の駅を指し、「市内交通の1日パスを買って、あれで、終点の山の頂上に行くといいよ」と教えてくれた。確かに1日パスは便利だった。スイスはEUに加盟していないので、小売の売買はほとんどスイスフランを使う。15スイスフラン(1,300)で、24時間、市内のほとんどの交通機関が使え、国鉄を使って空港(Flughafen)までも行けるというので、これをフルに利用した。電車は、ホテル前のTriemli駅から緑の芝生や森の中をゆっくり走り、10分くらいで終点のUetliberg駅に着く。そこから、森の中を10分くらい登ると急に展望台につく。途中、木々の間から、遥か向こうの小さなカラフルな家並みが、望める。日差しは強いが、木陰では空気はひんやりして気持ちがいい。出会う人ごとに、GutenMorgen!”と声を掛け合う。ギリシャだとこういう場合相手がどの国の人か分からないので、ちょっと躊躇するが、ここではドイツ語が圧倒的なので、安心だ。森の緑の中に、急に黄色の大きな球が目の前に迫る。このオブジェは緑と黄色のコントラストがおもしろい。コンクリート作りの大きな鹿の形をした街路灯が目を引く。その角が4つに分かれていて、それぞれに水銀灯のような球が組み込まれている。展望台に出ると、チューリッヒ湖が眼下に広がり、やや濃い緑の峯が手前を走る。その向こうに白壁と茶色の屋根の集落が点在する。頭にあるスイスのイメージと重なる風景だ。

電車の中で、アメリカのシンシナティから来たというAlan Colemanという高校の音楽の先生に会った。彼は元気のいい黒人で、昨日は部屋にトイレもないホテルだったのに、165ユーロ(8,900円)もかかったとこぼしていた。我々よりちょっと若く見えたけれど、もう退職したというので、60歳なのかと、ぶしつけに聞いてみたら、53歳という。「なぜ、そんなに若く退職?」と聞くと、「年を取ると授業をコントロールするのが大変で、体力が持たないよ」という。時々報道されるとっぴな事件の背景にも、アメリカで大変な状況があることを示唆しているようだった。メイル・アドレスを交換して、帰国したら、メイルが来ていた。「今度は教育委員に立候補することにしたので、そのためには住民の署名をかなり集めることが必要で、それに今走りまわっている」とあった。彼にとっては転職の合間を利用したスイス旅行だったのだ。

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