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5/23()
今日も見事な土佐晴れ。6時に起きて朝風呂へ。ウグイスの美声を耳にしながら太平洋を臨む岩風呂に浸かる。山口県から来たという中年の男が話しかけてくる。沖に出て行く漁船を見て、自分の趣味の魚釣りを思い出し、自慢する。浴室から出てそのまま庭に出て、崖っぷちまで進むと、そこにも絶景が広がる。目の前の茶色の断崖の下におおきな洞窟の入り口が2つ並んで見える。ここも天皇一家が何年か前に目にした景色だろう。

8時過ぎにはチェックアウトして、ジョン万次郎の生家へ向かう。例によって崖っぷちのすれ違いが難しい細く曲がりくねった道をおっかなびっくり進む。四国の県道は山と海の間の狭いところを這うように作られていて、本当に緊張する。万次郎の生家は小さな漁村の入り組んだ細い道を進んだ奥にある。その位置に正確に復元された彼の生家には誰もいない。ゆっくり玄関の障子を開けると、来訪者名簿がおかれているだけ。6畳くらいの和室と土間になった台所があるだけの狭い空間。物理的に狭いところから、当時日本で一番広い心を持った人間が育ったというのはおもしろい。

そのまま次の目的地、高知に向かう。途中、四万十川が幅1キロにもなる雄大な場所がある。そこには地元の野菜などが並べられた無人売店があり、近くに老人が1人でドラブルが起こったときに備えている。彼によるとこの四万十川を見に、以前都知事の職にあった美濃部氏がここに来て隅田川を浄化するお手本にしたという。それにしてもきれいな大量の水が洋々と流れる様はさすがに田舎の良さを保存する四国だ。そしてこの辺りの海岸線を通る国道からの眺めは沖縄のようにのどかで明るい。そのあと高知までは高速道路が利用できる。しかも最初の半分は無料区間だ。

桂浜へ着く。今度は坂本龍馬。浜辺には「リョーマの休日」との看板があちこちに。土佐犬の闘犬場もある。桂浜へ出て、見渡す限り遠方に広がる太平洋の水平線を眺めていると、自由な心を育まれた彼には、その彼方に展開される進んだ文明文化に強い憧れをいだいたのはもっともだと想像できる。

夕食は近くの本格的な中華料理店「華珍園別館」を紹介してもらう。中国人経営の店のようで、椅子のゆとりある配置、個室の作り方、壁や仕切りの彫刻模様、ひろびろとした厨房など、どう見ても日本人がやる中国料理店ではない。しかし味は我々に親しみやすいマイルドな仕上げで、美味しかった。

5/24()

まずは高知城へ。中心部の広い敷地に何層もの石垣が見える。石垣はクライミングの好きな人間には登りたくなるような荒っぽい石組みだが、古く苔むして見える。石垣内部にたまった水を抜く樋も突き出して見える。外国人の観光客がここでも目に付く。オーストラリアのブリスベンから来た女性、「龍馬魂」と大きく書かれたTシャツを着て自慢げに歩くアメリカ人。集団で中国j語をシャべりまくっている男女、この四国の辺境でも外国人の姿を見ない日はない。日本人は四国といえば「お遍路」と直結させるようで、個人も団体もほとんどお遍路さん姿だけ。この傾向の元は菅前首相も火付け役になったようだ。外国人にも影響が及び、外人でお遍路の姿で歩く人もよく見かける。

高知城の天守閣は1605年に建造され、その120年後に一度焼失したようだが、その後は火災などなく最も古い城の1つで現在では国宝だ。しかし入り口に聳える追手門は17世紀初頭のものが修理をされながらも現存している。高知城主、山内一豊の妻、千代の像もある。豊臣の情報を家康に流した「内助の功」で一豊が成功をおさめる話が「坂の上の雲」にあるようだ。それにしても高知は空港から料理まで何でも「龍馬」が付く。四国は日本列島の一部ではあってもやはり本州とは切り離された島だ。中央からは遠く、いかに幕府が抑えようとしても、交通・通信手段が限られていた時代に、独立心を促す風土が形成されたに違いない。しかも資源に乏しく貧しい生活に鍛えられた人々の気概が外に向けられ、欧米に乗り出して帰国し、日本のリーダーとして働いた人物が多い。ジョン万次郎、坂本龍馬はもちろんだが、正岡子規。夏目漱石はちと違うが松山中学の教師をしていて、その経験を書いた坊ちゃんはやはり、不思議に反骨精神の強い青年教師を描くし、彼自身も先に書いたように、正岡子規と親密な交流があった。高知から室戸岬へ向かう途中、岩崎弥太郎の生家という看板にも出会う。三菱財閥の創始者だ。彼もここの産だったかと気がつく。早速尋ねてみる。田んぼの真ん中にちょっとした集落があり、その一角の小さな藁葺き小屋だ。その中を覗くと小さな暗い部屋があり、中央にちゃぶ台がある。その上座に彼の父が座り、いつも酒を飲みながら弥太郎に強い折檻をしたという。

そこからあまり遠くないところに「モネの庭」という場所が作られた。モネの有名な「睡蓮」などを、パリの北西50kmのジヴェルニーにある「モネの庭」から株分けし、その道の庭園技師を入れて設計制作したそうだ。実際、モネの夢だった「青い睡蓮」は、本家本元の「モネの庭」では花咲くことはなく、日本のこの地で咲かせることができたとのこと。行ってみると、実際うまくできている。ヨーロッパ風の庭園のカラフルで小さな花が道端や池の周り、小高い丘など一面に植えられて背景の緑の草木の中で咲き誇り、文字通り印象派の風景画から飛び出して来た庭園のようだ。比較のためか、その草花の中に実際モネの絵(の模写)のキャンバスが置かれている。庭の池面に浮かぶ睡蓮の葉の脇から白と深紅の花弁が顔を出している。しかし絵と違って午後2時になると実際の睡蓮の花弁は閉じてしまうそうだ。その他「赤」を強調するためか真っ赤なブラシの花があちこちに植えられている。田無の東大演習林に一株だけあるので知っていたが、これは開花している期間が長くはないので、われわれとしては良い時期に行ったようだ。モネが描いた絵を思い出しながら、同じような構図の写真を撮ろうと心がけるが優しいようで難しい。

瞬間最大風速84mを記録して風速計が壊れたことがあるという室戸岬へ向かう。灯台は岬から少し奥に入った山の上にある。岬近くには竜馬と運命を共にした中岡慎太郎の銅像がある以外は奇妙な地層が見える奇岩が堆積しているだけだ。しかしここは深海の地層が隆起して地上で見られる珍しい場所のようで、外国人が小さなテントを張って緻密に観察している。同じ四国なのに、足摺岬近くの竜串の奇岩とは全く趣の違う地層なのが面白い。

時間も遅くなりかかったので、宿泊場所のホワイトビーチホテルに急ぐ。このあたりは四国でも辺地なのか、すれ違う車もほとんどなく、人影もあまり見えない過疎の地方を感じさせる。しかし見渡す限り太平洋が広がる広大な眺めの中を走るのは気持ちがいい。ときどき津波の防波堤が視界を邪魔することがあり、緊急の避難場所がつくられていたりする。太平洋の波は高く、このあたりはサーフィンの人気スポットでもある。その中心地東洋町に着くと、とたんに周りに若いサーファーたちが現れた。海辺に出ると100人近い若者が波乗りを楽しんでいる。車に泊まり込んだり、小さなテントを海岸に立てたりして、週末を楽しんでいる。人工過疎と思っていた場所に思いがけず、若者のメッカを見つけた。

5/25()

6時に目が覚めると、浜辺に波が打ち寄せる音がする。窓を開けると海の中には何十羽というカラスが海に浮いている様子。しかしよく見ると黒いウェットスーツに身を包んだサーファーの群れではないか。陽が上がる前からボートを抱えて、ビニール紐で足首に結びつけたボードに乗り、海に浮いている。大きな波が来ると突然ボードの上に立ち上がり、波の斜面を滑り降りる。10m以上も波に乗り続ける者もいるが多くはすぐにバランスを失い、転倒して、波間に消える。

今日は朝食が出ないので、昨日買ってきたパン、紅茶、果物、野菜などで簡単に済ませる。強い太陽光が降り注ぐが、空気は乾燥して爽快だ。四国の南東部に続く海岸に沿って続く国道55号をひた走る。

四国最東端の蒲生田岬へ。釣り船の係留されている湾に沿って続く細い道には滅多に車は来ないが、対向車が来るとすれ違いが困難。しかも曲がりくねっていて不意に現れる車にドキッとする。しかし時々現れる砂浜は平和で静か。実際浜辺におりて見ると打ち上げられた藻や木くずで汚れている。しかし魚釣りマニアにはそんなことはどうでもいいのだろう。

再び国道55号の幹線へ。今度は徳島の藍住町にある藍染めの歴史館へ。今でこそ藍は化学合成で作られ、手作業の染色はベトナムへ移されて、まだ現業の藍染工房は5~6軒しかないそうだが、かつてはこの地から全国へ藍染製品が送り出されたという。とても手の込んだ行程だ。藍の葉を煮たり干したりの間に発酵させる過程を組み込む。しかも布や板などを染色するのに1分漬けては1分乾燥させて酸化させ、色を定着させる。それを何度も繰り返す根気のいる作業だ。そこで何十年も藍染だけに生涯を捧げた老人に会った。彼が染色したコースターを1500円で2枚勝った。70歳とのことだったが目が輝き、澄んでいた。

次に鳴門の渦潮を見に行く。ガソリンが少なくなり、セルフの給油所へ。レギュラーで156円だ。四万十川上流で入れた時は172円だったので都会は安い。高速道路を利用し、淡路島へ通じる鳴門大橋を初めて渡る。橋の上からも渦巻きが見下ろせる。うず潮の周りには観潮船がウヨウヨ。渡り切って近くの観潮可能な道の駅へ。日曜日のせいか、道の駅の駐車場は満車で近くに臨時駐車場場が設けられ、道の駅までシャトルバスで行き、観潮の場所へ。それでも鳴門大橋の上から、下で急な流れを作り渦を巻く潮流を見るのは爽快でもある。ただ、少し時間が合わず、もっぱら太平洋の水が瀬戸内海へ流れ込む時間のようで、橋の下は幅の広い河の西方向への一方的な急流だ。これがしばらく経つと逆方向に流れ、黒潮などの流れと絡み合って渦が出来るのかもしれない。

今日は徳山の郊外の眉山という小高い丘の上にあるかんぽ徳山へ泊まる。家内のお腹の調子があまりよくないので、館内のレストランで1品料理を頼み、消化の良いものを特別注文。快く承諾して作ってくれた。部屋からは幻想的な日没と夕映えが見事だった。フロリダのキーウェストで見た日没と夕焼けを思い出すが、それに優るとも劣らない。やがて一面に暗闇が降りてきて、街の灯が見渡す限り眼下に広がる。東京ではあまり見られない見事な夜景だ。何よりも空気が澄んでいるのか、小さな光でもクッキリと光っている。見とれているといつの間にか時計が進んでいて、就寝の時間になった。明日のエネルギー回復のために熟睡しよう。

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5/26()
今日は珍しく雨。風も強い。朝食はバイキングで思わす食べ過ぎる。雨でゆっくりしようと朝から温泉を再度浴びて、9時半過ぎまでのんびりする。それにしても窓の外の下界の景色は見飽きない。吉野川の下流の広大な場所を埋めるように徳山の街が広がる。

さあ出発と出かけると、雨は一応上がっている。徳島の街中は渋滞がかなりひどい。何とか高速道路の入り口にたどり着き、高松へ向かう。高速道路だが、片側1車線の部分も多いので、どうしても他の車とペースを合わせないわけにいかない。50年前にも訪ねた栗林公園へ家内を案内する。もうすっかり忘れていたが、さすがに都内の庭園と違ってまず広さが違う。そして地方の庭園は天皇お手植えの松などがプレート付きで区別されている。大正天皇が植えた松まである。池も大きなものが3つもあり、1つしなない都内の庭園と規模が違うことがわかる。ただ、シニア割引が一切ない。ほとんどの客がシニアなので、そうはいかないのだろう。それと背景に大きな山がそびえて、その木々の緑が庭の緑を引き立てる。高層ビルを背景にする都内の公園とは違う。

そのあとまだ雨は来ないので、屋島へ向かう。短いドライブウェイがつなぐ山頂の屋島寺は88カ所巡りの84番札所だそうだ。寺院の境内なのに稲荷神社もある。途中の展望スポットでは瀬戸内海が見渡せて、檀ノ浦や小豆島も望むことができる。平家の軍団はここの「檀ノ浦」で敗れて、西へ逃れ、下関沖の「壇ノ浦」で滅亡するが、2か所のダンの字が微妙に違うし、似たような源平合戦なので、紛らわしい。

近くに「四国村」というのがあるので、寄ってみる。丁度雨が本降りになり、足元が滑って歩きにくい。800円の入場料をはらったので、敢えて進んで見れるだけ見る。まず入り口に樹木の太いツルで編んだ吊橋がある。高所恐怖症にはかなりきつい代物。雨が強く回り道をする。小豆島の田舎歌舞伎の舞台と野外の観客席が珍しい。テレビや電子機器の未発達の時代には、この地方では農村歌舞伎が唯一の娯楽だったことがうかがえる。春秋の年2回だけ農民が自演してお互いに楽しんだ。舞台裏や回り舞台、それにお囃子座まである。素人ながら素朴そのものの出し物で、農村の人たちが想像力を発達させて楽しんだようすが想像できる。瀬戸内海周辺は石切場が多く、大阪城や遠くは江戸城まで、切り出された巨石が運ばれたようだ。切り出されたのに運ばれなかった巨石も残されている。サトウキビから砂糖を生産するのも、沖縄同様盛んだったようだが、ここは沖縄の黒砂糖ではなく、白砂糖を製造した。そこで、煮つくしたサトウキビを絞るのに牛の力を利用して石臼を回す木製の歯車を回転させる絞り機を作製したようだ。その機械を真ん中に据えて周囲を牛が回転することができるように円形に作られた小屋があった。その工夫の仕方がおもしろい。瀬戸内海の漁も生活を支えていたようだ。木造船を使ってタコツボを海庭に配置する生活が分かる漁師の家も四国の典型的な家として展示されている。今日はこのあと琴平に泊まる。琴平は狭い路地の町。785段も登らないと着かない琴平神社にはこの年では無理だろうが、その雰囲気を家内に味わってもらおうとここも訪れることに決めていた。

雨の中を琴平の温泉宿に向かう。金毘羅さんの近くのビズネスホテルのような温泉ホテルをやっとみつける。やや小さめだが清潔な大理石の湯船に浸かっていると70代だと思われる男性が入ってきた。お遍路ではないかと思い、尋ねてみると案の定そうだった。静岡に住み、名古屋始発のお遍路ツアーにもう3年も参加しているとのこと。1回に数カ所の札所を回るだけなので88カ所回るのは大変だ。今回は40人ものグループで、この辺りの3カ所の宿に分宿しているそうだ。明日は6時に宿を出て785段の階段を30分で登るのだそうだ。

夕食時、ホテルで教えてもらった地元の人しか入らないという小さな食堂へ。家内の胃がやや不調なので、雑炊を作ってもらう。私は刺身。まだ時間が早いせいかお客は我々だけ。周りを見ると畳のコーナーにはハンコの付いた墨書きの小さな札を貼った屏風が一面に置かれている。店の主人に聞くと、父親の三谷兵武さんが84才で北海道から九州まで全国を自転車で回って、全部の市役所を訪ねて訪問した証拠に札に朱印をもらってきたという。4年前に38才の孫を交通事故で亡くし、供養と安全祈願をするために始めたそうだ。地方では歓迎され、地方紙も賑わわせたらしい。「丈夫過ぎる父だった」と主人。

5/27()

今日は良い天気。7時に朝食を取り、8時に金毘羅さんへ。とても上まで登る体力も気力もないということで、20段くらい登って眺めていると、金毘羅大芝居と書かれた矢印がある。重要文化財の芝居小屋だったものだ。大きな切妻の瓦屋根が大きな孤を描いて重なり合い荘厳な建物。今では市民会館か何かになっている。階段のところに戻ると、もう杖と傘を身につけたお遍路衣装のグループが次々と登って行く。脇では、土産物屋が店を開け始めて、いつもの1日が開けようとしている。我々は下に降りると、讃岐うどんの店の前では呼び込みが盛ん。うどん学校まであり、うどんの製作手順が念入りに図解された大きな看板が目に入る。かつて修学旅行で生徒を連れてうどん製作の実習をやり、頂上に上がっている間に店の人がそのうどんを茹でておいてくれて、腹を空かせて戻ってきた生徒は自分で作ったうどんで空腹を満たすということをやったことを思い出す。金比羅山の本宮までは785段の階段、さらに上の奥社までは1368段らしい。いかにも大変そうだが、その段階でも標高420mとのこと。階段がなければ、快い山登りになりそうな環境。だが、そこまで階段を作るはもちろん、登ることも人生を退屈にさせるだけの行為に見えて妙だ。

天気が良いのでドライブ日和でもある。善通寺インターから高速に入って、9日間に着いた松山方面に向かう。途中、今治で降り、瀬戸内海の島々をつなぐ橋を渡って尾道へ抜ける「しまなみ海道」へ。鳴門大橋より大きいように見える最初の大島大橋を渡り、伯方島から大三島へ入る。四国の最北端からこの島へ渡るだけで高速料金は2800円余り。大きな吊橋を3つも渡るので、仕方が無いのかもしれないが、高い。でも高速のお陰で、このように手軽に瀬戸内海の自然の中にいとも簡単に入れるのはありがたい。高速のインター付近に、昔江戸水軍がその拠点「甘崎城」を構築した島がある。今は木の生い茂った普通の島だが、看板がかかっていて当時を偲ぶことができる。島の反対側にある「ところミュージアム」に足を伸ばす。瀬戸内海を臨む風光明媚な山の斜面に作った彫刻美術館だ。やや現代風の彫刻作品が並ぶ。しかし全ての部屋が海を見通すように作られていて、作品に自由な雰囲気を感じさせてくれる。テラスにはタダのコーヒーまで置かれていて、ゆっくりした至福の時間を過ごす。

今日の宿泊場所に向かう。松山近くの海ぞいにある温泉施設。我々の部屋には普通の温泉室と露天風呂にサウナまで個人用に備え付けられていて24時間使用でき、11泊使用料が11,000円だから1人分5,500円。露天風呂からは瀬戸内海の急流やその後ろの大小の島々が望める。随分贅沢な待遇。食事も手軽で安いものが食堂で用意されていて、全く不自由しない。

夕食を食堂のベランダで夕日が沈むのを見ながら味わう。広大な海原の彼方に大きな太陽がゆっくりと沈むのを何枚も写真に収める。横浜から地元の学校時代の同期会に出席のために来たという私と同年齢の男が話しかけて来た。子供の頃この辺りの海を泳いで島に渡り、教師に怒られた思い出を話してくれる。地元の出身の彼もこの宿を選んだのだからやはり普通の宿ではないのだろう。明日はもう帰京の日だ。この9日間ほとんど快晴の天気に恵まれ、四国の美しさ、食物の豊富さ、うまさ、を再認識した。そして島であるが故に生み出された独特の個性と地勢を振り返ることができた。年寄りの冷や水と言われそうだが、その意味でも有意義な旅であったように思う。

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