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 イタリアのジェノバの近くから来たシモーナ・ポリチエーニ、ジュリオ夫妻は変わっていた。最初にE-Mailで旅程を調整しているときに、新婚旅行なのに日本の普通の家庭を見たいという。誰かに頼むわけにも行かず、結局我が家へ来てもらうことに。新宿の京王プラザ・ホテルに滞在する予定というので、西武新宿線1本で来られるし、我が家に泊まるわけでもないので、家族は了解。しかし、先方も突然押しかけるのは悪いと思ったのか、イタリアから全ての材料持参で我が家に来て、イタリア料理を作ってくれるという。
 新婦のシモーナさんは白血病の研究者で前に学会で来たことがあり、すっかり気に入った日本を新婚旅行先に決めて夫を説得したらしい。だから東京に6日間、日光に3日、京都・奈良に7日と3週間をつぎ込んだ。その内東京の部分をガイドしてくれないかという。新婚旅行に老人がずっと付き合うのはハネムーンの雰囲気を壊すのではといってみたのだが、是非お願いしたいというので、結局6日間全部同行するハメになった。新郎のジュリオ君はやや無口だが器用な黒い長髪のハンサムなコンピュータ技術者。私の家内は彼の顔はキリストのようだと言った。そう言われてみれば、長い頭に撫で付けた黒髪、鋭い目、短い黒ひげの顔を見ていると、よく西欧の絵画に描かれているキリスト像をほうふつとさせる。しかしキリストも奥さんに頭が上がらないのか、シモーナさんのイニシャティブで「婦唱夫随」。英語もシモーナさんの方が流暢でE-Mailの交換も彼女が中心。
 丁度雨が予報されている1日があったので、その日を「イタリア料理」の日に決める。前日の観光の後、我が家への行き方を説明しておいた。食材はこちらで買えるからと連絡しておいたのだが、野菜を除いて全てイタリアから持参。デザートのケーキ用の小麦粉から、パスタ、オリーブ油、大きな生チーズ、イースト菌やトマト、魚肉の缶詰までサックから出してテーブルの上に並べて説明。いつも夫婦で食事の準備をしているらしく、2人の呼吸がぴったり。奥さんが小麦粉を発酵させる作業をやっている傍らで、主人がパスタのソースを手際よく作っていく。我が家の古い汚い台所に大きなイタリア人が、所狭しと動き回り、その間を縫って私がデジカメで作り方を記録。小麦粉を練った塊がイーストで膨れ上がる。それを鉄板の上へ伸ばす。上に塗ったイチゴジャムが赤黒く波打つ。側で主人が作っていた細い筋状の小麦粉のペーストがジャムの上に織り重ねられてきれいな格子状の模様が作られていく。パイに似ているけどちょっと違う巨大なイタリアン・ケーキ。あとはオブンで焼くだけ。それにしても彼らは主食以上にデザートに凝る。
 その一方で、スパゲッティとピザがほとんど同時に出来上がった。ワインだけは日本のもので乾杯。彼らが作ってくれたスパゲッティを食べているとやはりちょっと何かが違う。何年か前にヴェニスで食べたものを思い出した。日本人はウドンでも腰があるものを好む。だから日本で作られるスパゲッティにも腰があるように思う。だがイタリア人の好みは生チーズに被われた、柔らかく溶けるようなスパゲッティ。そしてオリーブ油。日本のものに慣れすぎている私にはこの「本物」にどうもスパゲッティらしい食感がない。
 食後雨も上がり、近くの「江戸東京たてもの園」を歩く。三井財閥の本家、三井八郎右衛門の大邸宅、東京文化会館を設計した前川國男邸、高橋是清邸などが移築されて公開されている。しかし茅ぶき屋根の農家、木炭バス、古い都電、下町の町並みに並ぶ酒屋や銭湯などは日本人にも懐かしい。男湯、女湯が両方見渡せる銭湯の番台の前で、そこに座る番頭の微妙な立場を言うと思わず笑顔の2人。 
 この日のほかに都内見学2日、鎌倉、箱根、川越などを案内。私も若い2人とハネムーンの気分を共有させてもらい、久しぶりに若返った一週間になった。

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 車椅子のスペイン人とその家族を案内したことがあった。出産時に、下半身を制御する神経を傷つけられて、下半身が動かせない29才の若者だった。しかし、頭はよく、コンピュータ関連の自営業を営んでいて、英語も家族で一番。車椅子も介助なしで自由に素早くこなし、観光でも常に一行の先頭をリード。このダニエル君に恋人(ローラさん)が出来て結婚し、新婚旅行となったが、気遣った彼の両親が同行してきたのだった。
 事前のE-Mail交換で車椅子のことが分かると、私はすぐに観光地のバリア・フリーの状況を調べた。階段はせいぜい3段までをクリアできる程度で、エスカレータでは転んだことがあり怖いということなので、結局エレベータに頼るしかなかった。
 新宿のセンチュリー・ハイアット・ホテルが滞在先だったので新宿駅の西口が便利だったが、西口からは山手線ホームへのエレベータがない。地下通路からの唯一のエレベータは中央線ホームと南口へ上がるもので、一度南口へ上がり、再度山手線ホームへ降りることになる。それにしても1340万人もの乗降客がある新宿駅で地下通路からホームへのエレベータが1つだけというのは信じがたい事実だ。
 地下鉄も、ホームから改札口までのエレベータはかなりあるが、改札口から地上までのエレベータがない。例えば都心から浅草へ行くのには地下鉄を利用するしかないが、都内最古の銀座線はどの駅にもエレベータなどほとんどない。従って都営地下鉄の浅草線で行くことになるが、階段出口は繁華街にあっても、地上へ出るエレベータはとんでもない所へ出口がある。浜離宮へ近いJR浜松町駅など山手線ホームから改札へ降りるエレベータさえないので、一旦モノレール駅へのエレベータで上に行き、改札を抜けて「東京モノレール」の社屋のエレベータを好意で貸してもらっている人が多い。
 一方、以前よりバリア・フリーへの体制も進んでいることも感じられる。鎌倉の江ノ電など外人の利用客も多いせいか、車椅子を見ると複数の駅員がすばやくブリッジの板を持ってきてくれ、乗車を助けてくれる。長谷駅でも車椅子用のスロープ出口を特別に開いてくれる。JR鎌倉駅でも、乗車の際に手伝ってくれた駅員が気を利かせて降車駅に連絡しておいてくれて、新宿駅でドアが開いたとたんに、その場所で待ち構えていた駅員がブリッジをかけてくれた。さらに若い女性の案内係りがホームの端にあるエレベータまで付き添ってくれる念の入れようで、スペイン人も「こんな待遇はスペインでは考えられない」と感激していた。
 また歩道によくある黄色の帯、視覚障害者用ブロックを指して何かと外人によく聞かれる。最近では歩道を作る際に法律で義務付けられているのか、どこに行っても見かけるが、利用している障害者はほとんど見かけないのにあんなに必要なのかと疑問を持つ外人が多い。実際、健常者でも歩道を急ぐ自転車の危険にさらされている現状では、障害者が黄色い帯だけで安全に通行できるわけもないだろうし、何か、反対しにくい税金の無駄遣いのようでもある。
 ダニエル君の父、カルロスさんは事業者のコンサルタントでかなりの資産家のようだ。一方、母のカルメンさんは陶芸家。自宅には陶芸の作業場があり、日本人から見るとひどく独創的なデザインの作品を自分で焼く。日本で陶器と言えば、食器か花器、壷など具象的なものがほとんどだが、彼女の作る陶器は抽象的なオブジェが多い。さすがピカソの国だけあって、日本人とは全く違った感覚で陶芸に取り組むのが興味深い。カルメンさんも日本の陶器に興味を持っていて、是非益子焼の里、益子に行きたいという。車椅子で電車を使って益子までいくことを検討したが、どうも無理があり、結局私の車で私が運転して案内することにした。私達のボランティア・ガイドは交通費・食費はお客さんもちなので、ガソリン代と有料道路代は先方の負担ということで合意した。車椅子は簡単に車輪を取り外せる軽量型なので、分解すると車のトランクにおさまる。しかもセンチュリー・ハイアットのすぐ近くに高速道路入口があるので、道路の渋滞はほとんどなかった。
 高速道路を通行する車が身体障害者を運んでいる場合、料金が半額になるという制度がある。それを知っていたので、料金所でダニエル君の「身体障害者カード」を見せて、半額にしてくれるように頼んだ。ところが、係員は
「障害者が使う車自体も前もって登録しておくことになっています」などという。
「障害者の証明もあり、それでは同じ障害者なのに外国人を締め出すことになって不公平だし、この国際化された時代におかしいではないかなどと押し問答をしばらく繰り返した後
「今回だけですよ」などと言われながら、やっと半額にしてくれた。しかし「こんな制度も、スペインにはないね」などと言いながら驚いていた。
 タクシーを利用する場合には大抵5人乗りなので、運転手と我々5人が1台の車で移動することは困難であった。父のカルロスさんは園芸が趣味でもあったので、小石川植物園に案内することにした。地下鉄の春日からタクシー2台に分乗していくことにした。すぐに2台捕まらないので、運転手に「小石川植物園」を指示して2人だけ先に行かせた。残りの3人で植物園に着き、待てど暮らせど、もう1台が来ない。こんな時のために、私の「携帯」の番号を名刺のウラに印刷して渡してあったのだが。とにかくしばらくしてこの件は解決した。運転手が土地の人ではなく、勘違いをして近くにある「小石川後楽園」と思い込み、そちらへ1台を連れて行ったのだった。確かに「後楽園」も大樹に囲まれた大庭園で、「植物園」のイメージと重なる。しかもお互いに近いところにあることが間違いを引き起こしたのだろう。
 この一家はダニエル君がスカイプをしていることもあり、その後もたびたびメイルのやりとりをしている。12月にはダニエル君とローラさんの結婚式に特別に用意したというワインを3本も送ってくれた。彼らのLa Rioja(ラ・リオハ)地方で特に良質のブドウが収穫できた1999年のものが中心。ワインで有名な地方なので、そのたしなみ方については実に細かい。白ワインは10~12度で保存、赤ワインは14~16度で保存し、適度に酸化させるため飲酒の15分前にはコルク栓を開けて空気にさらしなさいと言う。そのようにして肉や魚に口の中で風味を付けながら食事を格段と味わい深いものにする。肉の臭みやしつっこさを優雅に昇華させていく。料理と酒を口の中で合わせながら賞味すると、日本酒は魚には合うように思うが、肉にはやはりワインがいいことが分かる。日本人は酔うために酒を飲む人が多いので、「ビールだけ飲むのは胃によくない」とか「口がさびしい」などと言って料理をつまむ。彼らは食事を直接おいしくする手段としてワインを利用しているように思う。欧州では飲酒を16才から認める国が多いのもその辺の事情がからんでいるのかもしれない。

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実際に会うまでその職業などは分からなかったのだが、アメリカの大手投資銀行メリルリンチの副社長という人を一週間くらいガイドしたことがある。ロシア系アメリカ人と日本人の母との間に生まれた2世の彼は日本語がダメで、46年ぶりに会うことになった叔母との再会に通訳として仲立ちしてほしいとのE-Mailだった。ただその叔母は秋田の田舎に住んでいて、そこに会いに行くことになるが、費用は一切持つのでお願いできないかと聞いてきた。こんな立場の人でもボランティア・ガイドを頼むのかと思いながら引き受けたが、先方も歓迎してくれて、その叔母の家族と共に八幡平や十和田湖まで出かけた。行程が長い分だけ話の機会も多く、興味深い体験だった。
 全世界に7万もの従業員を抱えるメリルリンチだから、副社長とは言っても世界中に500人もいるという。本社があるアメリカ、デラウェア州のウィルミントンから車で15分くらいのホックシンというところに豪邸を構える51才の投資コンサルタントで、個人的に100人余りの富裕層の顧客を抱え、その個人資産全部を一手に引き受けて管理し、顧客と運用方法を契約しながら実績を積み上げて、更に顧客を増やしていく。会社の持つ膨大なデータや支援機構、それに自分の能力を活用して、顧客個人との信頼関係をベースに仕事をするので、担当者が入れ替わることはない。だから普通のアメリカ人のように転職はなく、25年も同じ仕事だそうだ。
 たまたまサブプライム・ローン問題が浮上したころで、日本にいても毎日のように顧客から問い合わせの電話が殺到し、時差の関係で真夜中に対応する。ヘラルド・トリビューン紙をチェックしたり会社と連絡を取りながら、顧客を安心させるのに骨を折ったようだ。そんな中でも、自分の趣味は失わない。「どこかで日本刀は買えないか」という。たまたま東京美術倶楽部というビルで全国の刀剣商が集う「大刀剣市」というのをやっていたので案内した。模造品ではなく真剣ばかりなので、安くても20万円、高いと1500万くらいまでの刀剣を並べた「キオスク」が大きなビルの2階分を借り切って一斉に並ぶ。火縄銃や刀剣のツバを置いている店もある。「お宝鑑定」と称して、持ち込まれる刀剣の価値を鑑定してくれるブースもある。ゴルフバッグにクラブのようにたくさん突っ込んで運んできた真剣を取り出す人。外国人でもバイヤーだけでなく、店を構えている人もいる。メリルリンチのL氏は結局300年前に作られたという真剣を18万で買った。たぶんその市で一番安い真剣かもしれない。しかしこれをアメリカへ持って帰るのが問題だった。このような時代物の骨董品では重要文化財に指定されているものは持ち出せないので、文化庁に持参し書面を作って、これがそうでないことを証明してもらう必要がある。この手続きは刀剣商がやってくれたが、申請の1ヶ月後「輸出許可証」を受け取って刀剣をアメリカに送るのは私ということになった。刀と書類が送られてきた時に国際郵便局に問い合わせたら、「テロ対策(?)のため刀剣類は現在すべて外国送付禁止です」という。仕方がないのでアメリカの空輸宅配便FedExへ持ち込んだ。ここはさすがに手際がよくアメリカ東海岸まで2日間で送り届けてくれたが、送料は約1万円、偶然にも送料として預かっていた額そのものだった。L氏は後に自分の生い立ちと日本滞在期間中の写真を何枚も大きく入れた記念カレンダーを作って送ってくれた。

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 カイドをしているといろいろな人に出会う。オーストラリアから単独旅行の80才の老婦人の案内をしたことがある。彼女はバルト海に面する旧ソビエト連邦のラトビアの生まれで、30代に難民としてドイツに逃れたと思ったら、今度はナチスの迫害を受け、やっとの思いでオーストラリアに逃れたという。しかしここで受け入れてもらうにはオーストラリアで2年間の過酷な強制労働に耐えることが条件だったと、辛い過去を淡々と語ってくれた。

 インド、ニューデリーから南東方向に約400kmくらいのところにあるRajasthanという町から来た5人家族。Last NameMittalというので、鉄鋼王のMittal家と関係があるのかと思ったら、インドではMittalは佐藤とか鈴木などと同じ感覚の名前だとか。インド人は食事にうるさいと聞いていたが、やなり肉・魚などは一切食べない「菜食主義」者たち。店に入るのは最初から無理だと分かっていたようで、弁当持参。油で揚げたビスケットのようなもの、スパイスの効いた乾燥米などを沢山用意してきて、私も相伴させてもらう。10才前後の子供達もいるので、新幹線を見せてやろうと東京駅へ行く。入場券でホームに上って停車中のこだまのグリーン車に飛び乗り記念撮影。発射間際に飛び降りて、今度は成田行き電車に送り込む。飛行機の乗り継ぎの数時間を利用したこのような観光もときどきある。

 シリア、レバノン、サウジ、ヨルダンなどの中東の新聞記者たちをバスで案内したときも、食事が問題だった。時間もないので、途中のコンビニに停車してサンドイッチなど適当なものを買ってもらって車内で食べることにした。おでんやおにぎりなどもあり、いちいち確かめながら、おっかなびっくり選んで買ってバスに乗り込んだ。しばらくすると、うしろで妙な声で騒いでいる。見るとサンドイッチの間に入った糸のような肉を見つけ出し、「これはポークでないか?」 と聞いてくる。「そうだ」というと、このサンドイッチは食べられないと訴えている。あっ、そうか、道理でコンビニではいろいろうるさく聞いていたのだなと思いながら、イスラムの戒律の厳しさと彼らの忠誠心の強さに改めて驚く。

 彼らは皆日本に興味を持ってやってくる点では同じでも、一人一人に独特の個性があり、違った国民性があるように思う。しかし人間としては皆同じだなあとよく思う。好奇心を持って興味あるものを探し、じかに見て感じ取ろうと旅をする。そして親切に喜び、不幸に同情し、違いを楽しむ。また違った環境の中で普通の人がどんな生活をし、何を信じ、何に共感するかをじかに知りたいと思う。
そして一見違う民族間にも何かの関係があるものだ。 

 オランダ人の団体へは初対面で
 400年も前に日本がその発展の師匠とした大先輩」と持ち上げると
 「しかし今は日本が私達の先生です」とソツがない答えが返ってくる。
 そのオランダ人たちからはお礼のメイルの中に次のようなことが書かれていた。

I really liked the personal things you mentioned. I read in a book that Japanese people will not tell you what their opinion is, but I think you proved the book wrong!
You are a very young person not only in spirit, but in body as well!

 しかし実際は若くもない身体に鞭打って動き回る。だが不思議に疲れない。実際国内にいながら、こちらがイニシャティブを取って、外国旅行の何倍もの英語をしゃべらざるを得ない。だから疲れてくると、電車に乗っていて周りで日本人がしゃべっている日本語が英語に聞こえてくるほどだ。しかしボランティアの良さは、金銭の取引の関係ではないので、お客さんと割合対等な関係を維持できることである。だからその後も何人かとは交流が続き、世界中に友人が出来ていく感じもおもしろい。   

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