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峡谷の南面に沿うように64号線をさらに東に進む。針葉樹林が両側につながるきれいな道。ところどころで峡谷が開ける。そのまま40キロも進むとデザート・ヴュー(Desert View)と呼ばれる展望台につくはずで、そこは有名な場所なのでホテルがあるだろうと見当をつけて進む。しかし、着いてみると、キャンプ地はあるもののロッジの類は全く見当たらない。仕方がないのでさらに次の町まで行くことにする。しかしあたり一面潅木の荒地が地平線まで広がり、見渡す限り人家の気配すらない。まだ青さを残す大空の下で、夕日が大平原を照らす。ミニ・グランド・キャにオンとでもいうのか、前方にコロラド河の支流と思われる小さな流れが、赤土の岩の間を深く切り込んで流れている。どうもナバホ・インディアンの居留区に入り込んだようだ。道端に色とりどりの掘っ立て小屋を建てて、インディアンが手作りの焼き物を売っている。こんな場所では、農作や牧場は出来るはずもなく、ふんだんにある赤土だけを頼りに生計を立てる、かつてのアメリカの「大地主」の哀れな姿がそこにあった。

やがてアメリカ最大のインディアン種族、ナバホ族の中心地キャメロンに着く。しかしここも家らしい家はほとんどない。夕暮れが近くなり、少々心細くなった。ちょっと先に見えたガソリンスタンドで「この辺に、ホテルかモテルはないか」と聞いてみる。やはりインディアンらしい従業員が「この道を2分も下るとあるよ」と目の前の国道を指差して教えてくれる。それらしいものはなかったが…と思いつつ、今来た方へ下ると、ちょっと引っ込んだところに駐車場を囲むようにして、何軒かの店がある。その隅のみやげ物店の奥に、Cameron Motelという看板が目に入った。この区域に1軒しかないモテルであった。それでも、「1階がいいですか、2階がいいですか」などと聞かれたので、部屋はかなり空いていたようだ。昨日と同じく、79ドルだったが、アリゾナ州は税金が安く2人で84ドル(9,900円)だった。ここはインディアンの経営するモテルのようで、従業員はすべてインディアンだし、我々がステーキを食べた付属のレストランも、インディアンの肖像画や独特の星印の模様のある巨大なお皿や壷などが壁や周囲に置かれて、アメリカ人観光客の郷愁をかきたてているようであった。レストラン内では、ノースリーブは禁止、アルコール類も一切禁止されていて、まわりのアメリカ人も皆コカコーラでステーキをほおばっていた。聞くと、1916年からずっと伝統を守って営業しているというから、この宿はナバホ族がこの地に押し込まれてからの歴史をずっと見てきたことになる。

客室も、アメリカにはめずらしい木質の目がむき出しの家具が並び、ジグザグに切り込んだ木材や、インディアンの行事を描いた絵画、馬が数珠繋ぎになった模様を生かしたランプの支柱は青銅製であった。特に馬は生活の中心のようで、絵画はもちろん、親しみをこめて様々な模様に表されている。玄関やレストランの中の柱はトーテムポールに似ていて、彼らがカナダから流れ込んだ種族であることと関係があるのかもしれない。しかしここのモテルは、広大な赤土の荒野に囲まれたLittle Coloradoと呼ばれる川に沿った小さな峡谷のすぐ脇にあって、その峡谷をまたぐ吊り橋の近くに位置し、インディアンの生活を少しだけ味わうことができて、印象に残る宿であった。



翌朝も申し分のない天気。広大なナバホ(Navajo)インディアン居留区の中を突き抜ける89号線を北上し、東へ160号から163号へ通算200キロくらい進むと西部劇でおなじみのモニュメント・バレーに出るはずだ。途中インディアン居住区を区別するためか、国道の両側には低い柵が延々と続く。こんな赤土の荒地に隔離されて、果たして生きていけるのだろうかと思う。実際、動植物の気配がないだけでなく、凸凹で小さな瓦礫の山や谷がつづき、ちょっと手の施しようがないように見える。しかし、沿道に手製の土器を売る掘っ立て小屋がある付近では、その背後に点々と小さな小屋があり、インディアンの生活があるようだ。気がつくと、左手の砂漠の中に鉄道線路らしいものが平行して走っているのが見える。電信柱がそれに沿って並んでいて架線を支えているようだ。やがて、貨物列車が見えてくる。我々のスピードの方が勝っているので、追い越しながら一緒に走る。横に突然垣根が出来たように長い列車だ。どうも鉱石を運ぶための鉄道らしい。先頭の白い電気機関車が見えてきた。何と3重連の機関車で牽引している。機関士がデッキで暇そうにこっちを見ている。と、まもなく後ろへ消えて「垣根」はなくなった。

平坦な砂漠が広がり始めたと思ったら、やがて、遠くにニョキニョキと、貝柱のおばけのような岩山が見え始めた。その間を1本の黒い道路が真っ直ぐに伸びている。車が近づくにつれて、ごつごつした岩肌がくっきりとしてきて、その異様な姿が眼前に迫ってくる。頂上の平らなビュート(butte)と呼ばれる、赤茶けた巨大な砂岩の山が青空を背景にしてそそり立つ。今にもその陰から、馬にまたがったジョン・ウェインや駅馬車が現れて、反対側から来るインディアンの部隊と大乱闘が始まるような錯覚に陥る。しかしよく見ると、この懐かしい西部劇の舞台に現実にあるものは、駅馬車ではなくて、インディアンの住む掘っ立て小屋だ。それもそのはず、ここはインディアン居留区の中心なのだ。だから、ここは国立公園のような景観がありながら国立公園ではない。それにしても、この赤い土はきれいだ。ビニール袋に入れて少しもって帰ろう。

西部劇のふるさとを離れ、元の道を戻って160号との接点、Kayentaの町で給油をしていた。アメリカの石油スタンドはセルフ式が多い。Prepay(前払い)と書かれている場合は、ノズルの番号を言って先に適当な額のお金をレジに払うと、店の中でその番号のノズルからガソリンが出せるようにしてくれる。あとは自分でノズルを車の給油口まで伸ばしてレバーを引いていると払った金額になったらひとりでに止まる。もし、払った金額より手前で満タンになったら、レジで清算しておつりをくれるという仕組みだ。ところが、この店で給油中にガソリンが突然流れなくなり、表示の数字が消えた。停電だと言う。次々に車が来るが、あきらめて引き返す。やがて電気が来たが、コンピュータが再起動再計算するのに、随分時間がかかる。そして数字はゼロになり、再び給油が始まる。でも、停電前に給油した分はちゃんと引かれて、残りの分だけがきちんと給油された。停電もたまに起こるのか、コンピュータの対応も抜かりがない。

車はコロラド河を渡ってグランドキャニオンの北側に回ろうと98号線を進む。あたりは明るい茶色の山肌を見せる山がつづく。山肌には何重もの層が見られ、黄色、茶色、や薄い紫の縞が横に走る。真っ青な空の色の下で、実に鮮やかだ。ほどなく、車もその山に登りはじめる。峠を越えると眼下にピンクがかった茶色のきれいな砂漠が広がる。車はその中へまっしぐら。ピンクの大海原にダイビングするような気分である。遠くに、たぶんグランドキャニオンの北側の稜線だと思われる起伏が目に入る。やがて、コロラド河をダムでせき止めてできたパウエル湖の入り口、Pageという町に入る。湖と言っても、周りに緑が全くないので、赤土の土手に囲まれた巨大な青い水溜りといった感じ。それでも赤い岩山を切り込んだようなダムの下の水には観光用のゴムボートが浮かぶ。

ここから西日のまぶしさと戦いながら、さらに西へユタ州に入って200キロくらい進むとザイオン(Zion)国立公園に行く。ここは山梨の昇仙峡を大規模にして、岩肌の色を明るい茶色に変えたようなところだ。道路の両側にそそり立つ茶色の岩山の間を縫うようにして、不思議な縞模様のある岩肌が形を変えて迫ってくるのに思わず息を呑む。低い樹木が適当に育っていて、何とか緑を補っているが、硬い茶色の岩肌が、見上げるように垂直に伸びて、青い空を時にはギザギザに、時には丸く切り取る。岩山に掘りぬかれたトンネルを抜けると、峡谷が開けて、また別世界になる。さらにスケールが大きくなる。拳の形をした巨岩、鏡餅のように滑らかな岩山、天に向かって突き立つ尖塔のような岩が峡谷を挟んでそびえ立つ。その屏風のような岩に囲まれて、Zion Lodgeと呼ばれる村がある。その静かな村で今夜は泊まることにする。

この村で、アメリカには珍しいB&B(Bed and Breakfast)と書かれた家があった。イギリス系の国では、田舎では家族的な雰囲気を共有させてくれるところもあったことを思い出して、ここはどうかと思って当たってみたが、失望した。空き部屋があるというので見せてもらったら、半地下の小さな窓が上の方にあるだけの牢屋のようなところだ。ほとんどベッドだけがポツンと置かれた部屋で、2つ目のベッドは小さな臨時のものだった。きれいな風呂はついていて、朝食つきということを強調していたが、この部屋で70ドル(8200円)ではちょっと泊まる気になれなく、断った。その直後、すぐ前にあるロッジ(EL RIO LODGE)が目に入った。入口が一面ガラスの引き戸になっていて、ガラス越しに前の切り立った山が一望できる部屋で、2人で59ドル(6900円)だった。部屋を確認して車に荷物を取りに行こうとしていたら、近くの部屋の前でアメリカ人女性が困った様子をしていた。聞くと、私の部屋にはドア(入口)がないので、キーを差し込むところがないという。彼女には、玄関は鍵穴と蝶番のついたドアがあって、ノブを押して開けるものだという先入観があったようだ。確かにガラスの引き戸から入るのは、アメリカでは珍しい形だったが、私は以前ニュージーランドで同じような形のモテルに泊まったことがあり、すぐに分かった。ここの主人はイギリス風の英語を話す、合理的な人だった。自分の趣味に沿ってこれを建築したのだろう。

   

ここの主人は朝寝坊なのか、部屋の鍵とテレビのリモコンは部屋のテーブルに置いて、次の日はかってに出てくれと言う。だから翌朝はスーパーで買っておいたジュース、パン、果物、缶詰などで簡単に朝食を済ませ、いつものように晴れ上がった気持ちのいい朝の空気を吸いながら、もう1度ザイオンの神秘的な山道を降りる。約150年前初めてここを見つけたモルモン教徒がZion(神の住むところ)と名づけた気持ちが分かるようだ。ふもとのSpringdaleまで降りて89号線を更に北に向かう。100キロくらいで、ブライス・キャにオン(Bryce Canyon)国立公園に着くはずである。ユタ州もこのあたりになると、砂漠は少なくなり、Dixie National Forestと呼ばれる緑の保護区に入る。golden aspen(黄金ポプラ?)と呼ばれる木が、緑の葉を上半分くらい黄色に変えていて、実に美しい。黄色に輝くイチョウのようなgolden aspenを背景にして緑の草原の中を小川がゆっくり蛇行している光景は、まさにA River Runs Through Itという映画のミニ版だ。

あたりの山肌が赤みを帯びてくる。「赤い峡谷」(Red Canyon)の看板が見える。やがて、ブライス・キャにオン国立公園の関所が見えてくる。例によって20ドル。針葉樹林の中を走る道を進む。途中大掛かりな道路工事でちょっと進みにくいが、ほどなくNatural Bridgeのプレートのある展望場所がある。赤い大きな岩盤の下に大きな穴があき、自然の岩で出来た橋の形をなしている。茶、赤、黄色を混ぜたような何とも言えない明るい色を見ていると、気持ちが爽やかになる。橋の向こうの背景になっているところは黒い緑の林がずっと遠方まで広がっていて、木々の間から灰色の地面が透けて見える。太陽はまぶしいほど照りつける。近づいてくる人の運動靴の軽い音が聞こえるだけ。爽やかな風も受けて何とも言えず気持ちがいい。

さらに奥へ進むとRainbow Pointという展望のきく場所に来る。黒味を帯びた緑の木々の間から、明るい茶色のゴツゴツした岩柱が何本も突き出す。あるものは孤立し、あるものはいくつか集団になって高さを競い合うように林立する。その柱は下の方から茶色の層が横に走り、少しずつ微妙に色を変えて幾重にも重なって、最上部付近は赤茶色がやや白みがかって見える。ドイツのノイシュバンシュタイン城は、緑の山中に白や黄色の尖塔が鮮やかだが、ここでは、緑の中に赤茶色の尖塔がそびえる。それが城のような岩柱で出来ている。不思議な自然の芸術品だ。インディアンの世界では、すばらしい景色を見ることは薬をのむことと同じだと考えられていたようだが、このような景色に接していれば重い病気も治ってしまうような気がする。奥のほうは緑が地平線までつづき、峡谷というより大平原である。紫がかったグランドキャニオンとは違って、明るい、静かな素朴さが印象に残る。

さあ、これからラスベガスまで行く予定。まず、幹線に通じる14号線を進む。このあたりでは珍しく牧場らしい木の柵が当たり一面に、はりめぐらされているが、家畜は見当たらない。一面の背の高い針葉樹の緑を背景にして、鮮やかな赤や黄色の葉を茂らせた白い幹のポプラが前景になり、さらにその前に黄色の草原が広がる。時には、その草原が消えて、黄色と赤のポプラが全面に迫ってくる。すれ違う車もほとんどない静かな世界。砂漠ばかりのアメリカ西部にもこんな場所があるのだ。

やがてザイオンの岩山が遠望できるZion Overlookという展望場所に出た。近くでみると巨大な岩山にみえたところも、遠くから見ると緑が多く、それが緑、茶、黄色、赤の模様を作り、見事だ。ここでもインディアンらしい人が屋台を出して、土器、飾り石、人形、ネックレスを売っている。月の砂漠を脇に描いた熊の置物を買ったおりに、「インディアンですか」と聞いてみたら、「ナバホ族ですよ」と誇らしげな答えが返ってきた。いくら砂漠に押し込められていても、アメリカ最大の種族なのだという誇りなのだろうか。

この辺は杉の木が多いせいか、Cedar Cityという町がある。そこを抜けるとまた幹線道路のフリーウェイ15号線に出る。今日は何とかラスベガスまでは行きたい。でもまだ250キロくらいはありそうだ。車はロッキー山脈の中へ突っ込んだようだ。垂直にそそり立つ岩壁の間を曲がりくねった道路がつづく。車は何だか地底に潜ったように深いところを走っていて太陽も届かない。ゆっくり進んでいると、黒みがかった茶色や黄色の岩壁に囲まれて、息が詰まりそうだ。岩盤の地層が斜めに大胆に走っている。その上に折り重なるように四角の岩盤がそびえ、その間に大きな亀裂が黒い空間を作る。やっと周りの岩が少し小さくなり、青空がときどき目に入るようになる。そしてまた大平原。潜水艦が日の当たる海面に浮上したような気分。

ラスベガスが近づいてくると、巨大な高層ビル群が迫ってくる。ピラミッドのような三角錐のビル、滑らかにカーブを描いた岩壁のようなガラス張りの高層ビルに太陽が反射する。このあたりでは考えられない大胆なデザインのビルが広範囲に林立する情景はロスアンゼルスの中心街と変わらない。賭け事を合法化しただけで、砂漠の町がこんなに変身するとすれば、財政難に悩む石原知事の気持ちが賭け事に揺らぐのが少しだけ分かるような気もする。でも、アメリカも不景気のせいか、カジノも思ったほどの賑わいはない。延々と並ぶスロットマシンもキラキラとあかりが点滅しているが、お客の入りはガラガラで下のじゅうたんの赤だけが目立つ。小さな丸テーブルを取り囲んだお客にトランプをかっこよく、投げるように配っているホステスの表情も何となく冴えない。お客もほとんどが老人で、定年後の旅でちょっと立ち寄ったという感じである。2、3回スロットマシンを試してみたが、最近ではコンピュータが制御していて、すぐにドラムの回転が止まってしまい、あっという間に損をするようにできている。外ではネオンの洪水の中を、ボリュームを上げてビートの効いた音楽に追い立てられるように人が動いていく。FOUR QUEENSという縁起のいい(?)名前のカジノがある。その前の通りで、ガスマスクをつけた若者が色のスプレーを取り替えながら、宇宙のような絵をまたたく間に作り上げる。取り囲んでいた群衆が拍手をする。パソコンを持ち込んで、注文に合わせて、小さな看板をデザインし、即売している。手さばきが見事。

我々は車なので、このカジノの中心街から歩いて数分のモテル(Apache Motel)に宿をとった。ベッドが2つの部屋で35ドル(4,100円)だという。カギのデポジットを10ドル預けて、きれいな大小の新しいタオル、テレビのリモコンなどを受付でもらって部屋へ運ぶ。部屋はやや小さかったが、バスタブもちゃんとあり、冷房もきいて、窓からは正面にそびえるプラザホテルが望まれた。

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