コインブラのバス停から旧市街までは歩いて15分くらい。昨日電話をしておいたResidencial Modernaというホテルを探していたとき、たまたま3人で話していた中年の男性たちを見つけて聞いてみる。彼らも場所がよく分からないようで3人がポルトガル語でやりあっている。そこに更に近くにいた数人が加わり、「議論」になった。そのうち1人が近くの店に入って聞いてくれたが要領を得ない。多分この先だろうということで、全員でゾロゾロ動き出す。しばらく行ったところで私がResidencial Madeiraという看板を見つけ、「あれだろう」というと「そうだ」ということになり、“Muito Obligado!” “De nada.”となって、別れた。受付のベルを押すと、若い男が現れ、「昨日電話で予約したのだが…」と言ったか言わないうちに「シングル1室?」「Yes」ということで帳簿も調べないで部屋に案内してくれた。やや狭い部屋で家具もやや汚くベランダもない。「ベランダのある部屋といったはずだが...」「管理人がまもなく来るので、来たら変えてもらってくれないか」というのでとりあえず荷物を置いて外に出た。
そとをしばらく歩いて、戻ろうとしたとき、横の通りを見ると、Residencial Modernaという字が目に入った。こっちが正しいホテルだ! さっきは遠くからModeiraをModernaと読んで、それだと思い込んでいたらしい。すぐに部屋に戻り、荷物を担いで受付に下りてきたが、誰もいない。大声をだすと2階から返事。キャンセルすることにした…と大声を出すと、OKという返事。姿も見せない。そのまま外へ出て、正しいModernaの方へチェックインした。今度はさすがRickが推薦していたように、ベランダもあり、明るく清潔なホテルだ。それでも25ユーロ。私の早とちりが一番まずかったが、最初の案内といい、いい加減な受付といい、良い意味でも悪い意味でも、これがポルトガルなのだろう。
コインブラは大学の町。コインブラ大学はポルトガル最古の大学で13世紀に創立され、最も権威のある大学だ。創立当時のキャンパスはOld Universityと呼ばれ、全体がもう博物館のような存在。講堂は学位授与式などだけに使われているようだが、歴代の王の肖像画が見下ろす中で、学生はベンチに座って式に参加する。大講堂のベランダの突き当たりには、更に外壁に沿って細い通路があり、そこからはコインブラ全景が楽しめるので、監守にカギを借りて…とRickの本に書かれていたので、その通りに言ってみた。すると快く鍵を開けてくれた。古い細い通路(catwalk)は手すりもさびていて、ちょっと怖いが、確かにすばらしい眺め。18世紀の図書館には3万冊のラテン語、ギリシャ語、イーディッシュ語だけの革装の本が並んでいて、時間を区切って観光客を館内に入れてくれる。中央の建物の地下には学生食堂があり、学期期間中だったので学生でにぎわっていたが、観光客も入れてくれる。名門大学でもヘソ出しルックも多く、学生はどこも同じ。
第2次大戦中を含む困難な時代に1932年から40年間も首相を務めたSalazarもこの大学の出身。哲学者、経済学者、法学者、そして独裁者だった。牧師になるつもりが、政治の世界に引き出され、軍部、大企業、地主、教会の力のバランスをとりながら、国をうまくリードしたようだ。金には興味がなく、熱心なキリスト教徒で生涯独身だった。彼が秘密警察も使って独裁的な政治をしたことで彼を非難するポルトガル人は多い。しかし私の狭い知識からでも、彼が、世界の列強の圧力の中で、特にスペインのフランコ政権と巧妙に妥協しながら、ポルトガルを第2次大戦に巻き込まれぬよう守ったことは見事な政治力だと思う。例のフレイタス教授もSalazar氏をあまり良く言わないので、「でも彼はポルトガルを戦争から救ったでしょう。ポルトガルは2つの世界大戦を免れましたね。日本は政治家の判断の間違いから310万人が戦死しましたから…。我々はイモの茎を食って生き延びたのですよ」というと、反論できなかった。そして靖国神社には殺した人と犠牲者とが同じに祭られている。
700年前の旧コインブラ大学のキャンパスに隣接して新しいキャンパスが広がる。これもSalazarが首相のとき、当時のコインブラ旧市街の貧民街を撤去させて作った校舎群でしこりを残した。建物の角のところに大胆な石像がくっついている以外は日本の大学のキャンパスと違わない。アインシュタインの相対性原理から100周年とかで、アインシュタイン展をやっている垂れ幕がある。学生も車での登校が認められているのか、どこも空き地は学生の車があふれて大変。
夜に近くの教会で民族音楽ファドのコンサートがあり、5ユーロだというので出かけてみた。9:30からだというのに始まったのは10:15で、20分くらいの公演が休憩を挟んで2回ほど。それでも何とも感動的な時間であった。オフ・シーズンでもあり小さな教会ではあったが、聴衆も私以外には2,3組のペアだけ。別料金のポートワイン(Vinho de Madeira)を飲みながらゆったりした気分にもなれた。巨大なマンドリンのような形のポルトガル・ギターと普通のクラシック・ギター、それにボーカルが加わった男性3人組。ギターだけの2重奏もある。ボーカルの声量はものすごく、教会の壁で反響して響き渡る。時にはカンツォーネのようだし、時にはイタリアオペラのアリアのようだ。昔フランス映画で耳にしたようなギターのつややかな伴奏に乗って、物悲しい調べの声量のある声が全身に伝わる。Fadoは英語だとfate(運命)なので、何か物悲しい雰囲気がただよう。海に出て行く冒険者たちや待っている恋人・肉親の運命や希望を歌う。ギターを弾く人は黒い背広にネクタイだし、ボーカルも黒いマントとショールに身を包むが、悲しみを表現するより、運命に立ち向かう姿勢や勢いも感じる。
休憩時間に演奏者の一人が傍を通りかかったので、話しかけてみた。ポルトガル・ギターを弾く白髪の老人が大学教授のように見えたので、ひょっとしてコインブラ大学の教授が趣味でやっているのかという疑問もあった。だが彼は英語がダメだった。その後英語が出来るボーカルの人を連れて私のところまで来てくれたので、いろいろ話をした。結局、ギターを弾いていた老人は45年間ポルトガル・ギターを弾き続けている師匠で、彼の息子が今は中心になって仲間5人とコインブラ・クインテットというグループを作って演奏活動をしていることが分かった。東京や小松でも演奏会をしたことがあるという。自分たちのCDもあるというので、1枚分けてもらった。毎日彼らは5~6時間は練習もするという。しかしファドの演奏だけで生計を立てるのは難しく、どうしても副業をやらないわけにはいかないとこぼしていた。ホテルへ急ぐ帰り道でも、頭の中でいつまでもFadoが鳴りつづけていた。ポートワインも効いて2重に酔っ払ってしまった。 (
●上のクインテットの黒白写真をクリックするとファド「秋のバラード」が聴けます。)
|
ポートワインの里、ドウロ河渓谷のレグア(Peso da Regua)に行くため、コインブラから列車でとりあえずポルトに出た。コインブラもそうだが、ポルトも鉄道の駅が2つある。もともとあった町中のPorto Sao Bento駅は時代とともに列車が増えて手狭になっても拡張できず、郊外にもう1つPorto Campanha駅を作って長距離列車を処理している。ドウロ河渓谷への列車はローカルなので、Sao Bento駅から出ることになっているが、どういうわけか昼間の1本だけはCampanha駅から出ていた。しかも私はその路線は別の私鉄だろうという先入観があり、切符も買っていなかった。駅案内でもその事情を説明してくれないので、よく分からなくなり、Sao Bento駅のホームにたむろしていた男たちに地図を見せながら聞いてみた。また議論が始まったが、そのうちの1人が、国鉄の切符売り場に案内してくれた。ここで例によって“Muito Obligado!”で別れたつもりだったのだが、切符を買って出てみると彼はまだそこで待っていた。「ついてきなさい」のジェスチャーをするので、そのままホームへ出て、そこに待っている列車に飛び乗る。5分ほどでもう1つのPorto Campanha駅に着く。降りたあと、彼に続いて工事中の駅舎のドアを抜けて、しばらく歩き、駅の一番隅にある13番線にとまっているディーゼル列車に一緒に乗り込む。時間が早いので車内に人影はほとんどない。彼も私の前の席に座って、小さな時刻表の紙を見ながら、目的地Reguaまでの時間や、急行と鈍行の違いをポルトガル語で説明してくれるのが何となく分かる程度。でもここまで、親切にされてチップか何かあげないとまずいのかな、おみやげも持ってこなかったし…と思いながら、同時に変にチップを渡すとプライドを傷つけて怒らせてしまう…と、どこかで読んだことを思い出した。迷っているうちに、彼は別れを告げて行ってしまった。英語の出来る親しい現地人がいれば、こういうときの相手の気持ちについて聞けるのだが、残念ながらどうにもならない。
やがて客も増えてきて、ディーゼル列車は動き始める。ポルトからドウロ河に沿って内陸へ向かう田舎列車がスピードを上げながらブドウ畑の中を走る。ライン川やロワール河などと違って戦場になったことはないから、お城は全く見当たらないが、山の上の方まで続く段々畑になったブドウ園は印象的。しかもドウロ河は途中に何箇所も堰があるので、水がほとんど動いているようには見えない。幅も広く、長い湖のようだ。列車は山中の小さな駅に止まりながら、次第に山深く進む。2時間以上かかってやっとレグア(Regua)に。ポルトガルの駅には陸橋がない。列車はめったに来ないので、線路を歩いて横断するだけ。欧米全部そうだが、検札も車内なので、改札もない。昨日予約したホテルは駅前のドウロ河に面したHotel Regua Douro。45ユーロで少し高いが、窓やベランダから180度河と対岸の山が展望出来て気分がいい。
Quintaと呼ばれるポートワインの蔵元が、歩いていけるところにあるというので、早速出かける。もう夕方なので人通りもほとんどなく、たまたま遊んでいた子供にパンフレットを見せたら、案内してくれた。奥から出てきた男は、お客は私一人なのに、ポートワイン製造過程のビデオを大スクリーンで見せてくれた。見ている間、まず、試飲のワインを持ってくる。まだ1年くらいの若いワインだという。ビデオが終わりかかったころ、もう1つどうぞ…と別のワイン。今度は7~8年ものだという。ワイン音痴の私でも一口飲んで思わず“Soft and mild”と口から出た。男はうなずいて笑った。若いワインの刺激性のあるピリッとくる味や苦味もない。私もこのワインが効いて少しソフトな人間に変身できれば…。奥のほうに「蔵」があった。8万リットルのワインを醸成中の金属製の大樽が暗いところで並んでいる。こんなのは日本のワイナリーでは見かけたことがない。蔵の高い台の上には木製の樽が横にしてたくさん積んである。下の方には網の目にボトルの先を突っ込むようにして、やはり横向きに並んでいる。近くのポートワイン博物館にも行ってみた。種をつぶさないために昔は足でブドウを踏んだ。しかし最近では種をつぶさず、ブドウだけをつぶす機械が使われているそうだ。
普通のワインは2週間くらいかけて醗酵させるそうだが、ポートワインは2,3日醗酵させたら20%分くらいの葡萄ブランデーを加えるという。するとその時点で醗酵が止まり、醗酵しなかった糖分がワインに残るために自然の甘みが出る。これはポルトガルからワインを輸入していたイギリス人が輸入の途中でワインが変質するのを防ぐために考え出した方法。この状態でさらに2年から1世紀以上樽やビンで寝かせる。そして出来た種々のワインをブレンドして独特の風味や香りを作り出すというからキリがない。
* ポルトガルは海の幸が豊富で、日本人の味覚に合う料理が多いが、特にエヴォラで食べた「海鮮オカユ」(Arroz de tamboril 15ユーロ)はその地方の郷土料理らしく素朴でうまかった。やはりRickの本にあったCervejaria 1/4 Para As9という変な名前のレストランで探すのに手間取った末、午後7時に行ってみると、「まだ用意が出来ていないので30分してから来てくれ」といわれて7:30に行くと、「まだなので、店の中で待っててくれ」という。ようやく8時になってやっと出された。アサリ、海老、白魚などの入ったオカユだ。しかしアサリは殻のままで、少し砂が入っていた。海老も殻はとってあったが、頭は付いていた。1人前が多すぎて半分しか食べられなかったのが残念。ただ、この国では評判の店はお客にへつらうことなく、「俺の料理を食べさせてやる」といった誇り(?)があるような気がする。
* リスボンなどの大都市では、彼らは私を見てすぐに日本人と気づく人が多いことが分かった。しかし私はうっかりしていると、中国人に日本人だと思って日本語で話しかけて失敗した。しかし田舎の中華料理屋で変なポルトガル語を使って注文していたら、皮肉のつもりか、中国人に「ポルトガル人ですか?」 と言われたことがあった。またReguaの旅行案内所(Tourist Information)のカウンターでしばらく英語でやりとりしたあと、Are you English?(英国人ですか?)といわれて驚いた。ここには英国籍を持つ東洋人もかなり来るのかもしれない。
* リスボンの都電は外でも切符は買えるが、ワンマンカーで運転席が隔離されている車も多く、車掌もいない。しかし切符なしで飛び乗った場合、車内の自販機で買うことになるが、それが壊れていることが多い。周りの乗客もあまり手伝ってくれず、切符なんか買わないでそのまま降りろよ…という感じ。1度は車掌が途中で偶然乗り込んできたので、私が「壊れてるよ」というと、直そうとしたがダメ。やがて「使用不能」の紙らしいのを無造作に貼った。もう1台も壊れていたが、それは何とか直して、それに1.20ユーロを入れて買った。ただ、その切符にパンチを入れて(validate)、2度使うのを防ぐのも、となりの機械でやるが、これは日本にはないので、忘れやすい。荒っぽい運転の中で、身体のバランスをとりながら、混んだ電車でこの2つのことをするのは面倒だ。
* ポルトからリスボンへ特急列車で帰る途中、隣の席にオックスフォード大学出版局で英語のテキストを編集しているというChermy氏に会った。オックスフォードからポルトまで往復の飛行機が50ユーロ(6,800円位)というのがあったので、リスボンの友人を訪ねて週末を過ごしに来たという。ただ真夜中の便で午前2時にオックスフォードを出たので睡眠不足だとこぼしていた。ロンドンから来たという、リスボンで会った日本人は往復150ユーロ(約20,000円)だったと言った。リスボンのホテルで話したフランス人夫婦はエッフェル塔近くに住んでいるので、2時間余りでリスボンに来たと言った。日本から延べ18時間かけて69,000円も払って来た私とは何という違いだろう。
* 帰国も控えた11/12ころからリスボンの中心ロッシオ広場に大きな臨時ステージが設置された。その夜、夕食から帰る途中、そのステージで多くの若者が自分たちの「ハレルヤ」を歌っていた。やがて前の広場にいる観衆も一緒に調子を合わせ、ダンスをしたり手拍子をたたいて歌い始めた。そう言えば、地下鉄車内に「聖母マリアのクルーセイド」があるというビラが出ていたような気がした。次の日の夜は雨にもかかわらず、その広場が黒いショールを付けた女性たちで埋まり、透明な風除けの付いたロウソクを手にした信徒(Evangelists)の行進があった。その日の午後は、マリア像が運び出されて、神輿のように、通りを埋め尽くした信徒の中を運ばれていく様子をテレビが生中継していた。やはり聖母マリアの国だ。
|